ばかりに、遁《のが》れることも出来ない呪いの網にかかってしまったのだ。――ええ、そんな恐ろしい眼の色をせぬものよ――最前からまだ話もしなかったが、この鐘には、仔細《しさい》あって悪蛇の執念が久遠にかかっているのだ。その呪いでこれまでは作るのも作るのも、供養に一と打ちすると陶器《すえもの》のようにこわれてしまったのが、今夜ばかりはどうしてか、一つ一つに打ち出す呻き声がさっきのように谷底の小蛇の巣や蜘蛛の網にまでひびいて行ったのだから、ほんとにどのようなしかえし[#「しかえし」に傍点]が来ようも知れぬ、こんな益《やく》のない見張りをしているうちには、どこからか鱗《うろこ》の音を忍んで這い上って来るにちがいないのだ。
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間。
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妙信 (不安なる姿にて左右を顧※[#「目+乏」、25−上−1]しつつ鐘楼の石段に腰をおろして)さあ、このような恐ろしい晩に、黙っているのはよくないことだ。怪しい声音がいろいろのくらやみ[#「くらやみ」に傍点]から聞え出す、それにあの風の音よ。ここへ腰をおろして話でも始めないか。離れているとつい寒気などがして来るわ。
若僧 (立ちたるまま決意の語調)老僧様。のがれることも出来ない網にかかったと申されましたが、私はどのような障碍《しょうがい》にあいましょうと、一人で降りて行きとうございます。三善の知識が得たいばかりにわが家をもぬけ出て来ましたものを、まだ人の世の夢やかなしみ[#「かなしみ」に傍点]のはかない姿も見わけぬうち、このように不祥な霧が若やかな樫《かし》の葉にも震えている山の中で、怪しい邪婬の火に身を巻かれとうはございませぬ。私はまだこれから、いろいろの朝と夜とで満ちた命の間に、日の光りさえ及ばぬ遠国のはてまでも経歴《へめぐ》って、とうとい秘密が草木の若芽にも輝く御山を求めに行かねばなりませぬ。(嘆願の調)老僧様、どうぞ麓《ふもと》へおりる道をお教え下さいまし、ゆうべはくらやみ[#「くらやみ」に傍点]でどこをはせ上って来たのやらもおぼえませぬ。ほんとに私は今のうちにおりて行きとうございます。(顧みつつ言う)
妙信 うら若い身に殊勝な道心だが、どのようなところに行きとうても、もうこの山へ一度上った者は、それきりで降りることが出来ないのだ。これまで寺僧のうちで幾人《いくたり》もぬけ出した者はあるのだが、一人として麓へ行きついた者はない。盲目《めくら》にされても降り得ようほど案内知った道でありながら、誰も彼も行き迷うたあげく斃《たお》れてしまうのが、ほど経て道ばたへむごたらしい屍骸《しがい》になって知れるのよ。寺僧も多勢《おおぜい》いたのだが、そんな風に一人減り二人減って、今では和尚のほかにわしたち三人が残るばかりになってしまったのだ。
若僧 (絶望の悲しみを帯べる語調)それではこの山に一度上った者は、どのようにしても降りることが出来ないとおっしゃるのでございますか。もう私も、こうしてその悪霊が忍んで来るのを、怪しい息を吐《つ》きながら怖《おそ》れに汗ばんだ木や石なぞと一所に、今か今かとまつよりほかはどうすることも出来ないのでございましょうか。老僧様、私は不壊《ふえ》の知識を求めて上って来たのでございます。ゆうべも日高川からこっち誰にも人にあうことがなかったので、こんないまわしい山とは知らず、足元から崩《くず》れ落ちる真黒な山路も、物の怪《け》のような岩の間を轟《とどろ》き流れる渓川《たにがわ》も、慣れない身ながら恐れもなく、このような死人の息さえきこえぬ山奥で、金剛の道をきくばかりにほど遠い磯辺《いそべ》の家をも捨てて来たのだと思いながら、知恵のよろこびにもえ立ってひた上りに上って来たのでございます。それですのに私は、もう仔細も知らぬ呪いの網につつまれて、どのようにしても遁れることの出来ない身になったのでございましょうか。老僧様。
妙信 不愍《ふびん》なことだが草木までも呪われたこの山にはいったからは、もうどのようなことを願うても叶《かな》いはせぬ。仔細といってもやっぱりもとは邪婬の煩悩《ぼんのう》だが、もう二十年も昔になる、ちょうどこんな息の苦しい五月ごろの晩だった。思いをとげたい一心を欺かれた怨《うら》みから、清姫というようよう十四になった小娘が生きながら魔性の大蛇《おろち》になって、この山へ男のあとを追って来たのだ。和尚のはからいに男を伏せてかくまったこの鐘よ、硫黄《いおう》色の焔《ほのお》を吐きながらいく廻《めぐ》り巻くかと思ううち、鐘も男も鉛のようにどろどろ溶けてしまったわ。まだ和尚も年は若く堅固な道人の時で、見事に魔性を追い払ってはしまったが、その場のはからいに怨みを残して、執念というものがあの頭の中へ、小
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