から、生赤い血の汁なぞが流れようもありませぬし、何よりも私は、まのあたり上って来る姿にあったのでございます――
妙念 (焦ら立ち迹りて)己のたたきひしいだのが悪蛇ではない?――(下手の森の方を一瞥《いちべつ》し、また)その上ってくるのにお前があったというのはいつだ。どこで見たのだ。
依志子 川の、日高川の傍で。三人の鬼女に分れてお山へ消えて行くのを追いながら、私はかけ上って来たのですから、もうどのようにしてもこのあたりへ来ている時でございます。(再び妙念に縋り)妙念様。どうぞ気を鎮《しず》めて下さいまし、いよいよ最後の時が参りました。
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妙念は不安に刻まるるがごとく、ともに周辺を眺めたりしが、僧徒らの姿を見るやまたあららかに、
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妙念 お前たちは本門の傍で見張りをしているのだ、また眠りこけてなんぞいると、総身の膚膩《ふに》が焼き剥がれて生きながら骸骨《がいこつ》ばかりになってしまうのだぞ。早く行け、何をぐずぐずしているのだ。
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僧徒ら影のごとく黙して後の坂路より降り行く。
依志子の動白は必ずしも恐怖の色に満たず。
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依志子 あんな人たちが見張りに行ったって、もう何の益《やく》にも立ちはしませんのに。
妙念 だがお前はどうしてその姿を見たのだ。川の傍へどうして行ったのだ。
依志子 ほんとに私は思いもかけず恐ろしい姿を見たのでございます。この鐘が始めて響いて来ましたのは、まだ月も赤い色をして、夕やみに濡《ぬ》れた草葉の吐息がしっとり[#「しっとり」に傍点]とした匂《にお》いを野に撒《ま》いている時分でございました。それまでは数知れぬ怖《おそ》れと気づかわしさとが血管《ちくだ》の中を針の流れるように刺しまわって、小さな瞬《めばたき》をするにも乳までひびくようでございましたが、あの音が一つ一つ幾重の網を重ねたお山の木の葉からのがれて、月の色まで蒼白《あおじろ》く驚かして行くのかと思うほどおおどかに、ひびいて来るのをきいておりますうち、だんだん恐ろしい呪いも何も忘れて、ちょうど血吸い女《め》につかれた人たちのようにふらふらと家を出て参りました。あとからあとからとひびく鐘の音が、海の潮でも胸にぶつ
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