る途中、一度だつてそんなものは思ひ出しもしやしなかつたのに、といふのである。残つたところでそんなものは一文の値打ちもありやしないのにと、腹が立つた途端に、その新妻がすつかりいとしくなつてしまつた。何にもしらず、それを守り得たことを大きな手柄のやうに悦んでゐるのをみると、といふのだつたが、これはさもあつたらうと思ふ。以来この夫婦は、恋愛結婚のごとく情愛すこぶる濃やかなものとなつた。が、その手箱の始末はどうなつたか。
これはまた別なある男、捨てかねたがしかし、いつまでそのまゝにもして置きかねた。そこであれこれ思案の末に、それで風呂を沸かしたといふ。大した分量だとまづそれに驚かされるが、恋文風呂、果して首尾よくいゝ気持に温まれたかどうか、御本人はいゝ気持だつたらうが、それを貰ひ風呂した奴はどうだつたか、悪性の風邪など引き込んだかも知れない。
おなじく沸かすなら、茶の方が洒落れてゐるだらう。昔は恋人であつた彼女が、その旦那さんと一緒に訪ねて来たといふのである。よくお揃ひでお出で下すつたとその男はいそいそとそれを迎へ、まあお茶でもと七厘の下へ焚きつけたのが、昔のその彼女からの恋文の束だつた
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