のだ――といふ。経験のない方々にはおわかりにならんだらうが、経験ずみの方々は、にやりとお笑ひになるだらう。とかく人情といふやつは可笑しなものである。
 ある男、やはりそれを捨てきれず、錠のかゝる手箱に入れて持つてゐた。そのうちに結婚。他人からすゝめられて思はぬ人と家庭を作つたわけだが、何事も打ち明けるといつてもその手箱の中だけは見せられない。これはわが家の秘録でめつたには開けられぬものだとだけ説明して置いた。
 さてある日、勤め先の会社へ電話がかゝつて来た。隣りから火事が出て大変なことになりましたと、その新妻からの知らせである。それはと驚いて駈けて帰る途中、あれも焼けたかこれもかといろいろ考へる。買ひたての電蓄、マホガニー張りの洋箪笥、登山靴、ピッケル、それから大切なライカがあつた、等々、走馬灯のやうにくるくると浮んでみえる。やつと火事場へ着いた。すると、新妻がその胸元にしつかり、一つの小さなものを抱きしめながら立つてゐた、あなた、これだけは、これだけは何よりも先きに持ち出して守つてをりましたわ。例の手箱である。
 腹が立つたよ、と、その男はわらひながらこの話をしたものである。駈けつけ
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