当の手紙である。実は彼女の恋人からの大切な恋文だつたのだが、いまとなつてはそれを肌身から離して、代用させるより外はない。あゝ許し給へや恋人よ、と彼女はやむなく眼をつむるやうにしてそれを取り出した。そしてホセ役の男優に渡したのである。もしもこの男優が、かねてからこのミカエラ役の女優に横恋慕でもしてゐたのだつたら、大きにここが話の山になるところだらうが、とにかくホセ役の方ではいつもと同じに心得て封を切らうとして気がついた。するとミカエラが小声で、読まないでよと、いふ。読まなければ演技が出来ない。すでに封の切れてゐるのを切る風をして中をとり出す。ね、後生だから読まないでよと、いよいよ切なげにミカエラの小声がいふ。が、開けばたちまち眼に入るのだから仕方ない。読むともなく読むと、あゝこれは一体何たることだらう。天下の二枚目ともあるオペラ一座のテナァ唄ひが、満員のお客の前で、他人の恋文を読まされてゐるといふ訳か、とさうおもふと、途端に妙に咽喉がつまつて声が出なくなつた――といふ話、嘘ではない。あのときぐらゐ切なかつたこともないと、そのミカエラ女優は私に話した。が、さういつたあとで、でもあれを持つて
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