のだ――といふ。経験のない方々にはおわかりにならんだらうが、経験ずみの方々は、にやりとお笑ひになるだらう。とかく人情といふやつは可笑しなものである。
ある男、やはりそれを捨てきれず、錠のかゝる手箱に入れて持つてゐた。そのうちに結婚。他人からすゝめられて思はぬ人と家庭を作つたわけだが、何事も打ち明けるといつてもその手箱の中だけは見せられない。これはわが家の秘録でめつたには開けられぬものだとだけ説明して置いた。
さてある日、勤め先の会社へ電話がかゝつて来た。隣りから火事が出て大変なことになりましたと、その新妻からの知らせである。それはと驚いて駈けて帰る途中、あれも焼けたかこれもかといろいろ考へる。買ひたての電蓄、マホガニー張りの洋箪笥、登山靴、ピッケル、それから大切なライカがあつた、等々、走馬灯のやうにくるくると浮んでみえる。やつと火事場へ着いた。すると、新妻がその胸元にしつかり、一つの小さなものを抱きしめながら立つてゐた、あなた、これだけは、これだけは何よりも先きに持ち出して守つてをりましたわ。例の手箱である。
腹が立つたよ、と、その男はわらひながらこの話をしたものである。駈けつける途中、一度だつてそんなものは思ひ出しもしやしなかつたのに、といふのである。残つたところでそんなものは一文の値打ちもありやしないのにと、腹が立つた途端に、その新妻がすつかりいとしくなつてしまつた。何にもしらず、それを守り得たことを大きな手柄のやうに悦んでゐるのをみると、といふのだつたが、これはさもあつたらうと思ふ。以来この夫婦は、恋愛結婚のごとく情愛すこぶる濃やかなものとなつた。が、その手箱の始末はどうなつたか。
これはまた別なある男、捨てかねたがしかし、いつまでそのまゝにもして置きかねた。そこであれこれ思案の末に、それで風呂を沸かしたといふ。大した分量だとまづそれに驚かされるが、恋文風呂、果して首尾よくいゝ気持に温まれたかどうか、御本人はいゝ気持だつたらうが、それを貰ひ風呂した奴はどうだつたか、悪性の風邪など引き込んだかも知れない。
おなじく沸かすなら、茶の方が洒落れてゐるだらう。昔は恋人であつた彼女が、その旦那さんと一緒に訪ねて来たといふのである。よくお揃ひでお出で下すつたとその男はいそいそとそれを迎へ、まあお茶でもと七厘の下へ焚きつけたのが、昔のその彼女からの恋文の束だつた
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