当の手紙である。実は彼女の恋人からの大切な恋文だつたのだが、いまとなつてはそれを肌身から離して、代用させるより外はない。あゝ許し給へや恋人よ、と彼女はやむなく眼をつむるやうにしてそれを取り出した。そしてホセ役の男優に渡したのである。もしもこの男優が、かねてからこのミカエラ役の女優に横恋慕でもしてゐたのだつたら、大きにここが話の山になるところだらうが、とにかくホセ役の方ではいつもと同じに心得て封を切らうとして気がついた。するとミカエラが小声で、読まないでよと、いふ。読まなければ演技が出来ない。すでに封の切れてゐるのを切る風をして中をとり出す。ね、後生だから読まないでよと、いよいよ切なげにミカエラの小声がいふ。が、開けばたちまち眼に入るのだから仕方ない。読むともなく読むと、あゝこれは一体何たることだらう。天下の二枚目ともあるオペラ一座のテナァ唄ひが、満員のお客の前で、他人の恋文を読まされてゐるといふ訳か、とさうおもふと、途端に妙に咽喉がつまつて声が出なくなつた――といふ話、嘘ではない。あのときぐらゐ切なかつたこともないと、そのミカエラ女優は私に話した。が、さういつたあとで、でもあれを持つてゐたので、とにも角にも穴をあけずに済んだのよ。やつぱり恋人のおかげだつたわ。かうなるともう私も黙つて謝まるより外はない。
芝居の世界には何かと珍談がある。恋文を貰ふことなど、役者ともなれば自然多いことだし、多ければ自然扱ひも粗略になることだし、舞台に出る真際などに受取つて、ついそれを衣裳のポケットに突つ込んだまゝ忘れるなどといふことはざらにあるといつてもいゝだらう。狂言が変れば全部衣裳方の手に戻り、改めて手入れなどしてからまた出されるのだが、そのまゝ、ポケットの中に残つて、別な役者の手でそれが読まれたりする場合だつてないわけではない。そんなことからどんな飛んでもない事件が起つたりするか、これは諸君の御想像におまかせする。
可笑しいのは小道具に使はれる恋文である。鹿爪らしい顔をして舞台の役者はそれを読んでゐるが、実際は何が書いてあるか知れたものではない。毎日狂言方が書いたりするのだが、どうかするとその役者への貸金などの催促が書き込まれてゐて、すつかり腐らせられてしまつたといふやうなこともあるが、勿論これは真面目な劇団の話ではない。
恋人は捨てきれるが、恋文はちよつと捨てきれぬも
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