人物とは知らなかつた。次官になつたからといふので慌てゝ駆付けたのでは料簡が卑劣すぎやう。先見の明を欠いてこれは手後れである。三井銀行にはむかし私の家内へ恋文をつけたりしたのがゐるが、これはこつちから交際を求めたら気味わるがつて逃げるかもしれない。三菱にだつて学校の同窓でいまは相当な地位にゐる奴があるが、これは学生時代、どうしてあんな奴が文科などを志望してやつて来たのだらうかと、不思議がつた末に軽蔑しつゞけた相手だから、今となつて急に尊敬するのも義理が欠ける。一歩誤つたが最後踏み直しの出来ぬのが世渡りの道だといふが、誤つてしまふと家を借りることだつて出来やしないのか。
 保証といふことは判を押すことですよ、とはしかし婆さんも確かなことを教へてくれたものである。保証はしてくれてもなか/\判は押して貰へるものではない。私も世渡りの道を誤つたが、よしんば誤らずにあの拓務大蔵三井三菱と交際を持つてゐたとしても、しかし彼等は容易に判を押して呉れたであらうか。人生を甘く考へることは禁物である。連れ添ふ女房ですらいざといふ場合にはこちらを信用しやしない。人生を甘く考へなかつた廉によつて今日拓務大蔵三井三菱に勤め口を持つてゐるところの彼等ではないか。人生を甘く考へて原稿書きになつた私などとは人種が違ふ。人種の相違は今日大きな問題である。
 こゝで私は同じ人種である一人の友人をおもひ出した。彼はある日、私を訪ねて来て、いきなりかういひ出した。君、僕の判は要らんかね? 僕は今日区役所へ行つて実印届といふのをして来たんだよ、見給へ、こいつだ。見かけは詰らんたゞの木彫の印形だが、届けが済んでこれが役所の台帳にぺたんと押されると、もうたゞの印形ぢやない。ちやんと一つの人格を持つてくるんだ。こいつが口を利く。こいつが物をいふ。どうだね君、愉快ぢやないか、面白いぢやないか。よかつたら君、何にでも押してやるぜ。つまりこの友人は、その小さな印形が一つの魔力を持ちはじめた、といふ事で嬉しくて堪らんのであつた。でその嬉しさのお裾分を私にもして進ぜようといふのであつた。当時生憎と私には押して貰ふ何物も無かつたので、あり合せた新聞紙の欄外に押して貰つただけであつたが、もう一人の別な友人は、それほどに君がいふならといつて、連れ立つて高利貸のところへ行つた。いふまでもなくその魔力を持つた印形が口を利いてお金を借り
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