な時世に、きちんとした勤め口を持つてゐないといふ事が第一にいけないらしい。やつと一軒まだ決つてゐない貸家があつた。やれ嬉しやと、早速間取その他の拝見を願ふと、お待ちなさいと来た。裏木戸を開ける鍵でも取りに行くのかと思ふと、さうではなくて、お勤めは何処ですかといふ質問なのであつた。相手は五十を過ぎてもう還暦にも近い婆さんである。眼鏡をかけてゐた。眼鏡の支へのところで太い横皺が三本くつきりとしてゐた。原稿を書いたり芝居の稽古をつけたりしてゐるので、勤めといつては別にないのですが、と正直に答へると、忽ちその横皺へ縦筋が入つて、私どもの家作はすべて拓務省大蔵省あるひは三井三菱といふやうなところへお勤めの方ばかり入つてゐられるのでして、といふ言ひ方だつた。
売り言葉といふものがある。こんなのをいふのだらう。よろしい、売家は買へなくとも売り言葉なら買へる。ではその拓務大蔵三井三菱へ勤めてゐる人間に保証さしたら貸しますか、と私はその横皺と縦筋とこんがらかつた鼻の上の格子縞のやうなものを目がけて切り込んだ。だがなか/\そんなことで動じるやうな婆さんぢやなくほゝゝゝゝといきなり甲高い声をあげて、ぢろり眼鏡の中からこつちを見据ゑながら、さういふ方達とお附合ひがおありになりまして? 保証といふのは判を押すことでございますよ。さあさういはれて見ると、私はふだんの心掛けを誤つてゐたのである。三、四の顔見知りがないではないが、店受け保証をさせるほどの懇意はない。ううと口詰まつてゐるうちに、婆さんの方でぴしやりと、格子を閉めてしまつた。この格子は玄関の本物の方の格子である。その格子の間から、婆さんの鼻の上の格子縞が、海草のやうに揺れて見えてゐた。向こうからはこつちが、判この押してない紙屑みたいに見えたかもしれない。
拓務省といへば、私の郷里から出た代議士が大臣になつたことのある役所である。その折に同郷の誼みといふキツカケで鯛の一尾も贈つて置けば、下役の一人位とは知合ひになつてゐたかも知れない。チャンスといふものは後頭部に毛が無いといふが、その折に掴んで置けばこんな辱かしめを受けずとも済んでゐたのである。大蔵省といへばつい先日、事変公債売出し宣伝のための浪花節募集で選者を頼まれたところだ。その折の選者委員の長が理財局長といふのだつたが、世事に疎い私は、その局長がその後すぐさまに次官になるほどの
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