つと才覚し得た金の中から、この三つ分を差引いてしまふと餅代さへも残りかねる。が餅は喰はねど高敷居とでもいはうか、ぜひともこの際に長者の家の敷居を跨いで置かねばなるまい。やゝ悲痛な思ひで私はそれを掻き集めた。敢然として一つの徳心を果さんとする場合の人間は、いつも一種悲痛なものである。この悲痛味があればこそ、徳心はいよ/\徳なのかもしれない。とにかくかうして私は家主さんの門を叩いた。
やあ、ようこそと私は座敷へ招じ入れられた。私は早速この三ヶ月の間の御無沙汰について語りはじめた。だがわが家主さんは、軽くそれを抑へるやうにして、奥さんの淹れて来たお茶をすゝめてくれた。しとやかなその奥さんはやがて一揖ののちにお消えになつた。するとである。こゝでわが長者が、意外な言葉を私の耳に囁くやうにしてくれたのである。高田さん、あなたなぞは随分、御家内に内証で支払はなければならん筋のものがおありになるんぢやないのですか。
はあ、と私は当然面喰ふより外はなかつた。事実それはその通りに、あるにはあるのであるが、この節季にさしかゝつては、どうあつたにしても仕方のあることではない。はあ、と私はもう一遍返事して、苦笑しながら、いやどうにも、元来、だらしのない人間なもんですから。
それ/\、と家主さんは透かさずいつた。その方を先きにお払ひにならなくちやいけませんぞ。詰まらんところから夫婦不仲などといふことは起り勝ちなものです。なあに私のとこなんぞは御家内さんだつて御承知の支払ひだ。だからそんなものは後にして、その内密の方を、よござんすか。つまらんところから男の尻尾といふやつは出易いものでしてな。お判りですかな?
一挿話と私がいつたのはこの事である。私は仕方なくこの長者の言に従つて、わが家の平和を重んずることにし折角の家賃ではあつたが、その日のうちにそれを別途の支払ひの方に差し向けた。勿論この別途は特別な別途である。何もこゝで公開する必要はない。読者諸君はたゞこの一挿話を通して、このありがたい家主さんの世にもめでたい風格を推察して、尊敬欽慕の情をお抱きになればよろしい。もしまた諸君の中に自身家主であられる方があるならば、一応その御自身の所業乃至は心境とこれとを比較して反省なされるがよろしい。最初に私がこれを一つの道話ですらもあると述べたのは、正にそのことを諸君に強ひたいがためであつた。
だが
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