すでに相当以下に安値なのであつたが、長者の日く、折角あなたが安くしろとお言ひ出しになつたのに安くしないでは、お顔をつぶすことになる。そこで二円五十銭引いて七十二円五十銭ということにしてくれた。それでも私の家内は仰天したやうな顔で、ああ七十二円五十銭と溜息をついて、もつと手頃な家と思つて探してましたのにといつた。離れ家があつて二階になつてゐて七間もあつてこれこそ手頃な家ぢやないかと言ひ返すと、いゝえ、手頃といふのは間取りや間数の事ぢやありません。ぢや何んだ? お家賃の事です。いはれてみればなるほど七十二円五十銭は手頃ではない。
さて、それは九月のことであつた。月の十日を過ぎて引つ越したので、その月末は五十円ほどの家賃で済んだ。だが十月からが七十二円五十銭である。いつか十二月になつたのであるが、手頃でないまゝに、早くも私は続けての御無沙汰をしてしまつたのである。十、十一、十二の三月となれば、二つ分の敷金ではもう追ひつくことではない。憂鬱な季節の冬空の下で、私は少し恥ぢ入つた。だがこれは私のみの責任であつたらうか?
取り立てといふ言葉があるが、月末になると家主さんから使ひの小僧さんがやつて来たものである。だが何としたことか、この小僧さんは台所口へ現はれて、たゞ、御用はございませんでせうかと尋ねただけであつたのである。雨樋も別に壊れてはゐない。庭木の刈込みは始めから私の方でやることになつてゐる。だから御用はと尋かれても、格別御座いませんと返事するより外はない。もしも御座いましたらいつでも伺ひますからといふ口上を言ひ置いて帰つて行つてしまふ。これがいはゆる家賃取り立ての部に属するであらうか? 私は少しも取り立てを感じない。そこで私のやうな人物はつい支払ひを忘れる。自発的に郵便局の窓口まで持つて行かなければ納められん税金といふものが、つい忘れられ勝ちになるのと同様である。税金の方はしかしやがて督促状がやつて来る。だがわが家主さんは依然として御用を聞かせに小僧さんを寄越すだけであつた。かうして格別の用事のない月が三つ重なつて十二月となつた。仏の顔も三度といふが、あの福徳円満な家主さんも、三つも溜めたら少しは人間的な顔を見せるかもしれない。冬空の下で私はやうやく真顔になつた。長者に対する徳義として、よろしい、一つこれは私の方から出向いて行かう。
年越し諸払ひいろ/\のためにや
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