勇士ウ※[#小書き片仮名ヲ]ルター(実話)
鈴木三重吉
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)唖《おし》を
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)ウ※[#小書き片仮名ヲ、386−上−16]ルター
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)すら/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−
一
これは、こしらへた冒険談ではなく、全くほんたうの事実話ですから、そのつもりでお聞き下さい。
今からちやうど二十年まへのことでした。或ときイギリスのシェフィールドといふ町の警察へ、一人の泥棒未遂の犯人があげられました。年のころ三十がッかうの、黒い大きな眼をした、背のごく低い男で、夜中に、或家の屋根裏の部屋へはいりこんだところをつかまつたのですが、唖《おし》を装つてゐるのか、ほんとに唖なのか、どんなに、おどかしても、だましても、てんで口をきゝません。現場をつかまへた刑事のいふところでは、この犯人は猫のやうに、すら/\と屋根裏までかけ上り、にげるのにも、大屋根の真上を、平地のやうに、かけとぶといふ、したゝかもので、この手ぎはでは、むろん前科もあるにちがひないのですが、何しろ耳も聞えず、口もきかないのですから、署でも手こずりました。
で、ためしに、ほんたうの唖をつれて来て、手真似で対話をさせて見ましたが、犯人には、その手真似も一さい通じません。かゝり官はとう/\、その警察署附きのロバート・ホームスといふ牧師をよんで、やさしく、さとして見てもらふことにしました。
犯人はたゞの人のやうに、きちんとした身なりをしてをり、相当に物わかりもよささうな顔つきをしてゐるのですが、ホームスさんが来て、いろ/\おだやかに話したり、さとしたりしても、やはり、何にも聞えないふりをして取合ひません。
署では困りはてゝ、ともかく、そのまゝ留置場の一室へおしこんでおきました。
ところが、看守人たちは、この唖に午飯をはこんでやるのをわすれてしまひました。それから、念入りに午後のお茶も夕飯までも、すつかりわすれてあてがひませんでした。
すると、夜になつて唖は部屋の中で、ドタン、バタンとさわぎ出しました。その物音で看守人たちはそこに唖の泥棒がおしこめられてゐたことに、はじめて気がつきでもしたやうに、あわてゝバケツへ少しばかりの飲水を入れ、錫の水飲みをそへて持つていきました。
唖は、手をふりあげたり口をあけたり、種々さま/″\の手ぶり手まねをして、そんな水なんぞが何になる、食べるものをくれろ、分らないのか、おい食べものだよ、といふ意味をくりかへし/\して見せました。しかし、ぼんやりぞろひの看守人たちには唖のすることが、ちつとも通じません。そのうちに、唖は、一人の看守に向つて、両手を寝台の方へぐいとつきつけました。看守は、寝台をわきへもつていけといふのだらうと合点して、その下にしいてある、ぼろけた、じゆうたん[#「じゆうたん」に傍点]を、めくりとりました。唖はとう/\じれッたさまぎれに前後をわすれて、
「ちよッ、しやうのないばか[#「ばか」に傍点]だね。食ふものをもつて来い。かつゑてしまはァ。」と、どなりつけました。
こんなことから、唖は、すつかりばけの皮をめくられ、警官のとりしらべにも一々答へをしなければならなくなりました。
しらべ上げて見ますと、この犯人は、ちかくのある町のもので、ウ※[#小書き片仮名ヲ、386−上−16]ルター・グリーンウェイといひ、年は二十九、まだひとりもので、おやぢの家に寝とまりをし、或商人の家の手代をつとめてゐる男だと分りました。おやぢさんは、薬剤師で、今では薬屋をやめて引つこんでゐるのだといひます。ウ※[#小書き片仮名ヲ、386−上−20]ルターは立派な教育をうけてをり、外国語も四五ヶ国の言葉が話せ、禁酒禁煙家で、ばくち[#「ばくち」に傍点]一つ打つたこともないといふ、それだけを聞くといかにもまじめな人間のやうですが、それでゐて、この四年間に方々で九度も、夜、人のうちへしのびこみ、そのたんびにつかまつて牢屋へぶちこまれた前科ものでした。やらせると何でも出来る器用な男で、製本なぞも上手にやるし、帳づけも出来、監獄では活版工やペンキ工や、高い塔の屋根をなほす屋根屋もやりました。クリッケットといふ球戯にかけてはオーストラリア人のやうにずば[#「ずば」に傍点]ぬけた腕をもつてゐます。
ところが、かゝり官がおどろいたのは、この男が人のうちへ、はいりこむのは、べつに物がとりたいからではなくたゞ、わけもなく、猫見たいにすら/\と、たかい屋根の上なぞへかけ上ることがすきで、と
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