船だと思ったのは、こちらへ帰る船ではなかったろうか。今の藤さんの船は、靄の中のがこちらへ出てきたのではあるまいか。自分はわが説が嘲《あざけ》りの中に退けられたように不快を感ずる。もしかなたの帆も同じくこちらへ帰るのだとすると、実際の藤さんの船はどれであろう。あちらへ出るのには今の場合は帆が利かぬわけである。けれども帆のない船であちらへ行くのは一つもない。右から左へ、左から右へと隈《くま》なく探しても一つもない。自分は気がいらだってくる。それでは先に靄の中へ隠れたのが藤さんのだ。そしてもう山を曲って、今は地方《じがた》の岬を望んで走っているのである。それに極《き》めねば収まりがつかない。むりでもそれに違いない、と権柄《けんぺい》ずくで自説を貫《つらぬ》いて、こそこそと山を下《お》りはじめる。
 下りる途中に、先に投げた貝殻が道へぽつぽつ落ちている。綺麗《きれい》な貝殻だから、未練にもまた拾って行きたくなる。あるだけは残らず拾ったけれどやっと、片手に充ちるほどしかない。
 下りてみると章坊が淋しそうに山羊《やぎ》の檻《おり》を覗いて立っている。
「兄さんどこへ行ったの」と聞く。
「おい、貝
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