れてしまうのは何だか物足りない。自分がどんな気でいるかは藤さんは知ってはいまい。別れた後は元の知らぬ人と考えているように思っていてくれては張合がない。自分は何だかお前さんの事が案じられてならないのである。
このあたりの見渡しは、この時のみは何やら意味があるようであった。暮れて行く空や水や、ありやなしやの小島の影や、山や蜜柑畑や、森や家々や、目に見るものがことごとく、藤さんの白帆が私語《ささや》く言葉を取り取りに自分に伝えているような気がする。
と、ふと思わぬところにもう一つ白帆がある。かなたの山の曲り角に、靄《もや》に薄れて白帆が行く。目の迷いかと眸《ひとみ》を凝《こ》らしたが、やっぱり帆である。しかし藤さんの船はぜひとも前からの白帆と定めたい。遠い分はよく見えぬ。そして、間もなく靄の中に消えてしまうのである。よく見えて永く消えないのが藤さんの船でなければならぬ。
はらはらと風もないのに松葉が降る。方々の機《はた》の音が遠くの虫を聞くようである。自分は足もとのわが宿を見下す。宿は小鳥の逃げた空籠のようである。離れの屋根には木の葉が一面に積って朽《く》ちている。物置の屋根裏で鳩がぽ
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