さ》すところをじっと見守っていると、底の水苔を味噌汁のように煽《おだ》てて、幽かな色の、小さな鮒子がむらむらと浮き上る。上へ出てくるにつれて、幻から現《うつつ》へ覚めるように、順々に小黒い色になる。しばらくいっしょに集ってじっとしている。やがて片端から二三匹ずつ繰《く》りだして、列を作って、小早に日の当る方へと泳いで行く。ちらちらと腹を返すのがある。水の底には、泥を被《かぶ》った水草の葉が、泥へ彫刻したようになっている。ややあって、ふと、鮒子の一隊が水の色とまぎれたと思うと、底の方を大きな黒いのがうじゃうじゃと通る。
「大きなのもいるんですね。あ、あそこに」と指すと、
「どこに」と藤さんが聞く。しかしそれは写っている影であった。鮒子はやっぱり小さく上の方を行く。自分は足元の松葉をかき寄せて投げつける。鮒子は響のごとくに沈んで、争い乱れて味噌汁へ逃げこんでしまう。
 藤さんが笑う。
 手飼の白鳩が五六羽、離れの屋根のあたりから羽音を立てて芝生へ下りる。
「あの鴎《かもめ》は綺麗な鳥ですね」と藤さんがいう。
「あれは鳩じゃありませんか」
「ほほほほ、あれじゃないんですの。あたしね、ほほほほ」
「どうしたんです?」
「いいえ、あたしとんでもないことを思いだしたんですわ」と一人で微笑む。
「何を?」
「何でもないことです。――先達《せんだって》あたしがこちらへ渡ってくる途中でね、鴎が一匹、小さな枝切れへ棲《とま》って、波の上をふわりふわりしていたんですの。ちょうど学校なぞにある標本を流したようでしたわ」
 自分は気がついたように、海の方を見わたす。はるかの果てに地方《じがた》の山が薄《う》っすら見える。小島の蔭に鳥貝を取る船が一《ひ》と群《むれ》帆を聯《つら》ねている。
「ね、鳩が餌を拾うでしょう」と藤さんがいう。
「芝生に何か落ちてるんでしょうか」
「あたしがさっき撒《ま》いておいたんです。いつでもあそこ[#「あそこ」に傍点]へ餌を撒くんです」
「あ、あれは足をどうかしてるようですね」
 初やがすたすたとやってくる。紺《こん》の絆天《はんてん》の上に前垂をしめて、丸く脹《ふく》れている。
「お嬢さん」
「何?」
「いいや、男のお嬢さんじゃわいの」
「まあ。今お着換えなさるんだわ」
「私がどうした」
「冗談は置いて、あなたは蟹《かに》を食べなんしたか」
「いつ?」
「ほほほ、鴎のような話ね。――蟹を召しあがれば買ってくるつもりなの?」
「ええ、はあ買うたるのよの。午に煮ようかと思うんでがんさ。はあじきにお午じゃけに。――食べなんしたことががんすのかいの」
「食べるけど、あれは厄介《やっかい》なばかりでしかたがないや」
「おいしいものですけれどね」
「それはうもうがんすえの。それにこのごろは月がないころじゃけになおさらうまいんでがんすわいの。いいえ、ほんとでがんすて。月夜にはの、あれが自分の影に怖れてびくびくするけに痩せるんでがんすといの」
 村の水天宮様の御威徳を説く時の顔つきである。
「ほほほ」
「おもしろいな、それは」
「そんなら食べなんすか」
「食べるよ」
「じゃ、よかった」と、またあちらへすたすたと、草履の踵《かかと》へ短い影法師を引いて行く。
 鳩は少しも人に怖れぬ。

 自分は外へ出てみたくなる。藤さんは一人で座敷で縫物をしている。いっしょに浜の方へでも出てみぬかと誘うと、
「そうですね」と、にっこりしたが、何だか躊躇《ちゅうちょ》の色が見える。二人で行ったとて誰が咎《とが》めるものかと思う。
「だってあんまりですから」と、ややあって言う。
「何が」
「でもたった今これを始めたばかりですから」
「ついでに仕上げてしまいたいのですか」
「いいえ、そうじゃないのですけど、何だか小母さんにすまないから。――あたし行きたいんですけれど」
「では行けばいいじゃありませんか」
「そんなことはかまわないんですけどね、あたしこちらへまいってから、いつも鬱《ふさ》いでばかりいて、何一つろくにお手伝いしたこともないんでしょう」
 自分は立膝をして、物尺《ものさし》を持って針山の針をこつこつ叩いて、順々に少しずつ引っこませていたが、ふと叩きすぎて、一本の針を頭も見えないようにしてしまう。幸にそれにはちょっとした糸がついていたので、ぐいとその糸を引くと、針はすらりと抜ける。
「もう一と月からになるのですのに、ずっと私そんなでしたものですから、今日は気分はいいし、私の方からそう言って、これを言いつかったのですのに」
「かまわないや、そんなことは」
「だって女はそうも……」と、針に糸を通す。
 自分は素直に立って、独りで玄関へ下りたが、何だか張合が抜けたようでしばらくぼんやりと敷居に立っている。
 と、
「兄さん」と藤さんが出てくる。
「あそこに水天
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