宮さまが見えてるでしょう。あそこの浜辺に綺麗《きれい》な貝殻がたくさんありますから、拾っていらっしゃいな」という。そんなに勢《はず》まないのだけれど、もうよそうとも言えないので、干し列べた平茎の中をぶらぶらと出て行く。
五六歩すると藤さんがまた呼びかける。
「あなたお背《せな》に綿屑かしら喰っついていますよ」
「どこに?」
「もっと下」
「このへんですか」
「いいえ」
「大きいのですか」
「あ、もうちょっと上」と言い言い出てきて取ってくれる。真綿の切れに赤い絹糸の絡《から》んだのが喰っついていたのである。藤さんはそれを手で揉《も》みながら、
「いいお天気ですね」という。いっしょに行ってみたいという念がそぶりに表われている。門を出しなに振り返ると、藤さんはまだうろうろと立っている。
「お早くお帰りなさいましな」
「ええ」と自分は後の事は何んにも知らずに、ステッキを振り廻しながらとことこと出て行ったけれど、二人はついにこれが永き別れとなったのである。
もちろんこの時には、借りた着物はもう着換えていた。着換えるまで自分は何の気もなしにいたけれど、こうして島の宿りに客となって、女の人の着物を借りて着たのかと思うと、脱ぐ段になって一種の艶《えん》な感じが起った。何だかもう少し着ていたいようにも思われた。そして、しばらく羽織の赤い裏の裏返ったのを見守った。自分の家なぞでは、こんな花やかな着物を脱ぎ捨ててあることはついに見られない。姉は十一で死んだ。その後家じゅうに赤い切れなぞは切れっ端もあったことはない。自分の家は冬枯れの野のようだとつくづくそう思う。そのうちにふと蛇の脱殻《ぬけがら》が念頭に浮んだ。蛇は自分の皮を脱いで、脱いだ皮を何と見るであろうかと、とんでもないことを考えだした時、初やがやってきて、着換えた着物を持って行った。
今自分は、その蛇が皿を巻いたような丘の小道をぐるぐると下りて行く。一曲りずつ下りるにつれて、女の歌っているのがおいおいに鮮かに聞き取れる。
「ねんねしなされ、おやすみなされ。鶏《とり》がないたら起きなされ」と歌う。艶《つや》やかな声である。
「おきて往《い》なんせ、東が白む。館々《やかたやかた》の鶏が啼く」と丘を下りてしまうと、歌うのは角の豆腐屋のお仙である。すべてこの島の女はよく唄を歌う。機《はた》を織るにも畠を打つにも、舟を漕ぐにも馬を曳くにも、働く時にはいつも歌う。朝から晩まで歌っている。行くところに歌の揚《あが》らぬことがあれば、そこには若い女がいないのである。若い女はみんな歌う。そしてお仙なぞは一番うまい組のようである。
お仙は外に背中を向けて豆を挽《ひ》いている。野袴をつけた若者が二人、畠の道具を門口へ転がしたまま、黒燻《くろくすぶ》りの竈《かまど》の前に踞《しゃが》んで煙草を喫《の》んでいる。破れた唐紙の陰には、大黒頭巾を着た爺さんが、火鉢を抱えこんで、人形のように坐っている。真っ白い長い顎髯《あごひげ》は、豆腐屋の爺さんには洒落《しゃれ》すぎたものである。
「おかしかしかし樫の葉は白い。今の娘の歯は白い」
お仙は若い者がいるので得意になって歌っている。家について曲ると、
「青木さんよう」と、呼び止める。人並よりよほど広い額に頭痛膏をべたべたと貼り塞《ふさ》いでいる。昨夕《ゆうべ》の干潟の烏のようである。
「昨日《きんにょう》来《き》なんしたげなの。わしゃちょうど馬を換えに行っとりましての」と、手を休めて、
「乗りなんせい。今度のもおとなしゅうがんすわいの」と言ったかと思うと、またすぐに歌になる。
「親が二十《はたち》で子が二十一。どこで算用《さんにょ》が違《ちご》たやら」
「ようい、よい」と野袴の一人が囃《はや》す。
横の馬小屋を覗《のぞ》いてみたが、中に馬はいなかった。馬小屋のはずれから、道の片側を無花果《いちじゅく》の木が長く続いている。自分はその影を踏んで行く。両方は一段低くなった麦畠である。お仙の歌はおいおいに聞えなくなる。ふと藤さんの事が胸に浮んでくる。藤さんはもう一と月も逗留しているのだと言った。そして毎日|鬱《ふさ》いでばかりいたと言った。何か訳があるのであろう。昨夜《ゆうべ》小母さんがにわかに黙ってしまったのは、眠いからばかりではなかったらしい。どういうことなのであろうかとしきりに考えてみる。
後《うしろ》から鈴の音が来る。自分はわが考えの中で鳴るのかと思う。前から藁《わら》を背負った男が来る。後で、
「ごめんなんせ」という。振り向くと、馬の鼻が肩のところに覗いている。小走りに百姓家の軒下へ避《よ》ける。そこには土間で機《はた》を織っている。小声で歌を謡っている。
「おおい」と言って馬を曳いた男が立ちどまる。藁の男は足早に同じ軒下へ避《よ》ける。馬は通り抜ける。蜜柑
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