よりとしている。
 何だか煮えきらない。藤さんが今度来たのはどうしたのだというのか。何かおもしろくない事情があるのであろうか。小母さんは何とか言いかけてひょっくり黙ってしまった。藤さんはどうして九月から家を出ているのか。この対岸《むかい》のどんな人のところにいるのであろう。
 池へ山水の落ちるのが幽《かす》かに聞える。小母さんはいつしか顔を出してすやすやと眠っている。大根を引くので疲れたのかもしれない。小母さんの静かな寝顔をじっと見ていると、自分もだんだんに瞼《まぶた》が重くなる。

 千鳥の話は一と夜明ける。
 自分は中二階で長い手紙を書いている。藤さんが、
「兄さん」と言ってはいってくる。
「あのただ今船頭が行李《こうり》を持ってまいりましたよ」という。
「あれは私のです」と言ったまま、やっぱりずんずんと書いて行く。
「それはそうですけれど、どうせこちらへ運ばなければならないのでしょう?」
「ええ」
「ではこの押入には、下の方はあたしのものが少しばかりはいっておりますから、あなたは当分上の段だけで我慢してくださいましな」
「………」
「ねえ」
「ええ」
「まあ一心になっていらっしゃるんだわ」という。
 ちょうど一と区切りついたから向きなおる。藤さんは少し離れて膝を突いている。
「お召し物も来たんでしょう?――では早くお着換えなさいましな。女の着物なんか召しておかしいわ」と微笑む。自分は笑って、袖を翳《かざ》してみる。
「さっきね」と、藤さんは袂《たもと》へ手を入れて火鉢の方へ来る。
「これごらんなさい」と、袂の紅絹《もみ》裏の間から取りだしたのは、茎《くき》の長い一輪の白い花である。
「このごろこんな花が」
「蒲公英《たんぽぽ》ですか」と手に取る。
「どこで目っけたんです? たった一本咲いてたんですか」
「どうですか。さっき玉子を持ってきた女の子がくれてったんですの。どこかの石垣に咲いていたんだそうです。初やがね、これはこのごろあんまり暖かいものだから、つい欺《だま》されて出てきたんですって」
 返した花を藤さんは指先でくるくる廻している。
「本当にもう春のようですね、こちらの気候は」
「暖いところですのね」
 自分はもくもくと日のさした障子を見つめて、陽炎《かげろう》のような心持になる。
「私ただ今お邪魔じゃございませんか」
「何がです?」
「お手紙はお急ぎじゃないのですか」
「そうですね。――郵便の船は午《ひる》に出るんでしたね」
「ええ。ではあとですぐ行李をこちらへ運ばせますから」と、藤さんは張合がなさそうに立って行く。
「あ、この花は?」
「え?」と出口で振り向いて、
「それはあなたにおあげ申したのですわ」
 藤さんが行ってしまったあとは何やら物足りないようである。たんぽぽを机の上に置く。手紙はもう書きたくない。藤さんがもう一度やってこないかと思う。ちぎった書き崩しを拾って、くちゃくちゃに揉んだのを披《ひろ》げて、皺《しわ》を延ばして畳んで、また披げて、今度は片端から噛み切っては口の中で丸める。いつしかいろいろの夢を見はじめる。――自分は覚めていて夢を見る。夢と自分で名づけている。
 馬の鈴が聞えてくる。女が謡《うた》うのが聞える。
 ふと立って廊下へ出る。藤さんが池のそばに踞《しゃが》んでいて、
「もうおすみになって?」と声をかける。自分は半煮えのような返事をする。母屋《おもや》の縁先で何匹かのカナリヤがやっきに囀《さえず》り合っている。庭いっぱいの黄色い日向は彼らが吐きだしているのかと思われる。
「ちょっといらっしてごらんなさいな。小さな鮒《ふな》かしらたくさんいますわ」と、藤さんは眩《まぶ》しそうにこちらを見る。
「だって下駄がないじゃありませんか」
「あたしだって足袋のままですわ」
 自分もそれなり降りて花床を跨《また》ぐ。はかなげに咲き残った、何とかいう花に裾《すそ》が触れて、花弁《はなびら》の白いのがはらはらと散る。庭は一面に裏枯れた芝生である。離れの中二階の横に松が一叢《ひとむら》生えている。女松の大きいのが二本ある。その中に小さな水の溜りがある。すべてこの宅地を開く時に自然のままを残したのである。
 藤さんは、水のそばの、苔《こけ》の被った石の上に踞んでいる。水ぎわにちらほらと三葉四葉ついた櫨《はぜ》の実生えが、真赤な色に染っている。自分が近づけば、水の面が小砂を投げたように痺《しび》れを打つ。
「おや、みんな沈みました」と藤さんがいう。自分は、水を隔《へだ》てて斜に向き合って芝生に踞む。手を延ばすなら、藤さんの膝にかろうじて届くのである。水は薄黒く濁っていれど、藤さんの翳《かざ》す袂《たもと》の色を宿している。自分の姿は黒く写って、松の幹の影に切られる。
「また浮きますよ」と藤さんがいう。指《ゆび
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