に折れると思うと、その男はもはや、ただ大きな松葉の塊《かたまり》へ股引の足が二本下ったばかりのものとなって動いている。松葉の色がみるみる黒くなる。それが蜜柑畑の向うへはいってしまうと、しばらく近くには行くものの影が絶える。谷間谷間の黒みから、だんだんとこちらへ迫ってくる黄昏《たそがれ》の色を、急がしい機《はた》の音が招き寄せる。
「小母さんは何でこんなに遅いのでしょうね」と女の人は慰めるようにいう。あたりは見るうちに薄暗くなる。女の人がちょっと出て行って、今度帰って坐った時には、向き合いになってももう面輪《おもわ》が定かに見えない。
 女の人は、立って押入から竹|洋灯《ランプ》を取りだして、油を振ってみて、袂から紙を出して心《しん》を摘む。下へ置いた笠に何か書いた紙切れが喰っついている。読んでみると章坊の手らしい幼い片仮名で、フジサンガマタナクと書いてある。
「あら」と女の人は恥かしそうに笑ってその紙を剥《は》がす。
「章ちゃんがこんな悪戯《いたずら》をするんですわ。嘘ですのよ、みんな」と打消すようにいう。
「何の事なんです、これは」
「ほほほ」
「フジサンというのは」
「あたしでございます」
「ああ、お藤さんとおっしゃるんですか」
「はい」と藤さんは微笑みながら、立って押入れを探す。
 藤さんという名はこうして知ったのである。
「そしてあなたが何でお泣きになったんです?」
「いいえ、嘘ですの、そんなことは」
「燐寸《マッチ》を探していらっしゃるんですか。私が持っています」
「あら、冗談なのでございますわ。あれは章ちゃんが……」と勘違えをしている。ポケットから燐寸を出して洋灯を点《とも》すと、
「まあ、恐れ入ります」と藤さんは坐る。灯火《ともしび》に見れば、油絵のような艶《あでや》かな人である。顔を少し赤らめている。

「あし[#「あし」に傍点]が一番あん」と章坊が着物を引っ抱えて飛びだすと、入れ違いに小母さんがはいってきて、シャツの上から着物を着せかけてくれる。
「さ、これをあげましょう」と下締《したじめ》を解く。それを結んで小暗い風呂場から出てくると、藤さんが赤い裏の羽織を披《ひろ》げて後へ廻る。
「そんなものを私に着せるのですか」
「でもほかにはないんですもの」と肩へかける。
「それでも洋服とは楽でがんしょうがの」と、初やが焜炉《こんろ》を煽《あお》ぎながらい
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