緋《ひ》の紋羽二重に紅絹《もみ》裏のついた、一尺八寸の襦袢《じゅばん》の片袖が、八つに畳んで抽斗の奥に突っ込んであった。もとより始めは奇怪なことだと合点が行かなかった。別に証拠といってはないのだから、それが、藤さんがひそかに自分に残した形見であるとは容易に信じられるわけもない。しかし抽斗は今朝初やに掃除をさせて、行李から出した物を自分で納めたのである。袖はそれより後に誰かが入れたものだ。そしてこの袖は藤さんのに相違はない。小母さんや初やや、そんな二三十年前の若い女に今ごろこんな花やかな物があるはずがない。はたして藤さんが入れたのだとは断言できぬけれど、しかしほかのものがどう間違ったってこんな物を自分の抽斗へ入れこむわけがない。藤さんのしたことに極《きま》っている。そうすればただうっかり無意味で入れたのではない。心あって自分にくれたのである。そう推定したってむりとは言えまい。自分は袖を翳《かざ》して何だかほろりとなった。
 しかし自分は藤さんについてはついにこれだけしか知らないのである。ああして不意に帰ったのはどういう訳であったのか、それさえとうと聞かないずくであった。その後どこにどうしているのか、それも知らない。何にも知らない。
 というとちょっと合点が行かぬかもしれぬけれど、それは自分がわざわざ心配してこんな風にしてしまったのである。千鳥の話が大切なからである。千鳥の話とは、唖《おし》のお長の手枕にはじまって、絵に描いた女が自分に近よって、狐が鼬《いたち》ほどになって、更紗の蒲団の花が淀んで、鮒《ふな》が沈んで針が埋《うず》まって、下駄の緒《お》が切れて女郎蜘蛛が下って、それから机の抽斗から片袖が出た、その二日の記憶である。自分は袖を膝の上に載せたまま、暗くなるまでじっと坐っていろいろな思いにくれた末、一番しまいにこう考えた。話はただこの二日で終らなければおもしろくない。跡へ尾を曳いてはもうつまらないと考えた。ある西の国の小島の宿りにて、名を藤さんという若い女に会った。女は水よりも淡き二日の語らいに、片袖を形見に残して知らぬ間にいなくなってしまった。去ってどうしたのか分らぬ。それでたくさんである。何事も二日に現れた以外に聞かぬ方がいい。もしやよけいなことを聞いたりして、千鳥の話の中の彼女に少しでも傷がついては惜しいわけである。こう思ったから自分はその夕方、小母さん
前へ 次へ
全23ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
鈴木 三重吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング