船だと思ったのは、こちらへ帰る船ではなかったろうか。今の藤さんの船は、靄の中のがこちらへ出てきたのではあるまいか。自分はわが説が嘲《あざけ》りの中に退けられたように不快を感ずる。もしかなたの帆も同じくこちらへ帰るのだとすると、実際の藤さんの船はどれであろう。あちらへ出るのには今の場合は帆が利かぬわけである。けれども帆のない船であちらへ行くのは一つもない。右から左へ、左から右へと隈《くま》なく探しても一つもない。自分は気がいらだってくる。それでは先に靄の中へ隠れたのが藤さんのだ。そしてもう山を曲って、今は地方《じがた》の岬を望んで走っているのである。それに極《き》めねば収まりがつかない。むりでもそれに違いない、と権柄《けんぺい》ずくで自説を貫《つらぬ》いて、こそこそと山を下《お》りはじめる。
下りる途中に、先に投げた貝殻が道へぽつぽつ落ちている。綺麗《きれい》な貝殻だから、未練にもまた拾って行きたくなる。あるだけは残らず拾ったけれどやっと、片手に充ちるほどしかない。
下りてみると章坊が淋しそうに山羊《やぎ》の檻《おり》を覗いて立っている。
「兄さんどこへ行ったの」と聞く。
「おい、貝殻をやろうか章坊」というと、素気なくいら[#「いら」に傍点]ないと言う。
[#ここから2字下げ]
私は不意に帰らねばならぬことと相なり候。わけは後でお聞きなさることと存候。容易にはまたとお目もじも叶《かな》うまじと存ぜられ候。あなたさまはいつまでも私のお兄さまにておわし候。静かに御養生なされ候ようお祈り申しあげ候。おものも申さで立ち候こと本意《ほい》なき限りに存じまいらせ候。なにとぞお許しくだされたく候。
[#ここで字下げ終わり]
これは足を洗いながら自分が胸の中で書いた手紙である。そして実際にこんな手紙が残してあるかもしれないと思う。出ようとする間ぎわに、藤さんはとんとんと離れへはいって行って、急いで一と筆さらさらと書く。母家《おもや》で藤さんと呼ぶ。はいと言い言い、あらあらかしくと書きおさめて、硯《すずり》の蓋を重しに置いて出て行く。――自分が藤さんなら、こんな時にはぜひとも何とか書き残しておく。行ってみれば実際何か机の上に残してあるかもしれないという気がする。
しかしやっぱりそんな手紙はなかった。
けれども、ふと机の抽斗《ひきだし》を開けてみると、中から思わぬ物が出てきた。
前へ
次へ
全23ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
鈴木 三重吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング