れてしまうのは何だか物足りない。自分がどんな気でいるかは藤さんは知ってはいまい。別れた後は元の知らぬ人と考えているように思っていてくれては張合がない。自分は何だかお前さんの事が案じられてならないのである。
このあたりの見渡しは、この時のみは何やら意味があるようであった。暮れて行く空や水や、ありやなしやの小島の影や、山や蜜柑畑や、森や家々や、目に見るものがことごとく、藤さんの白帆が私語《ささや》く言葉を取り取りに自分に伝えているような気がする。
と、ふと思わぬところにもう一つ白帆がある。かなたの山の曲り角に、靄《もや》に薄れて白帆が行く。目の迷いかと眸《ひとみ》を凝《こ》らしたが、やっぱり帆である。しかし藤さんの船はぜひとも前からの白帆と定めたい。遠い分はよく見えぬ。そして、間もなく靄の中に消えてしまうのである。よく見えて永く消えないのが藤さんの船でなければならぬ。
はらはらと風もないのに松葉が降る。方々の機《はた》の音が遠くの虫を聞くようである。自分は足もとのわが宿を見下す。宿は小鳥の逃げた空籠のようである。離れの屋根には木の葉が一面に積って朽《く》ちている。物置の屋根裏で鳩がぽうぽうと啼《な》いている。目の前の枯枝から女郎蜘蛛《じょろうぐも》が下る。手を上げて祓《はら》い落そうとすると、蜘蛛はすらすらと枝へ帰る。この時|袂《たもと》の貝殻ががさと鳴る。今までとんと忘れていたけれど、もうこの貝殻も持っていたってつまらないと思って、一つずつ出しては離れの屋根を目がけて投げつける。屋根へ届くのは一つもない。みんな途中へ落ちる。落ちて木の葉が幽《かす》かに鳴る。今のは何とも答がなかったと思うと、しばらくして思いだしたようにばさというのがある。目を閉じて横の方へうんと投げて、どの見当で音がするか当ててみる。しなければするまで投げる。しまいには三つも四つも握《にぎ》ってむちゃくちゃに投げる。とうとう袂の底には、からからの藻草の切れと小砂とが残ったばかりである。
ふたたび白帆を見る。藤さんのはいつまでも一つところにいる。遠くの分はもう亡くなっている。そして、近く岸の薄《すすき》のはずれにこちらへ帰る帆がまた一つある。どこから帰ったのかとはじめは訝《いぶか》しむ。そのうちに、これは一番はじめのがこちらへ近づいたのではあるまいかと疑う。みるみる岸に近くなる。それでは藤さんの
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