湖水の女
鈴木三重吉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)或《ある》山の上に
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)或|家《うち》の
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(例)[#ここから1字下げ]
/\:二倍の踊り字(「く」を縱に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いくども/\
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一
むかしむかし、或《ある》山の上にさびしい湖水がありました。その近くの村にギンという若ものが母親と二人でくらしていました。
或日《あるひ》ギンが、湖水のそばへ牛をつれていって、草を食べさせていますと、じきそばの水の中に、若い女の人が一人、ふうわりと立って、金《きん》の櫛《くし》で、しずかに髪をすいていました。下にはその顔が鏡にうつしたように、くっきりと水にうつッていました。それはそれは何《なん》とも言いようのない、うつくしい女でした。
ギンはしばらく立って見つめていました。そのうちに、何だか、じぶんのもっている、大麦でこしらえたパンとバタを、その女の人にやりたくなって、そっと、岸へ下《お》りていきました。
女は間《ま》もなく、髪をすいてしまって、すらすらとこちらへ歩いて来ました。ギンはだまってパンとバタをさし出しました。女はそれを見ると顔をふって、
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「かさかさのパンをもった人よ、
私《あたし》はめったに、つかまりはしませんよ。」
[#ここで字下げ終わり]
と言うなり、すらりと水の下へもぐってしまいました。
ギンは、がっかりして、牛をつれてしおしおと家《うち》へかえりました。そして、母親にすべてのことを話しました。母親は女の言った言葉をいろいろに考えて、
「やっぱり、かさかさのパンではいやなのだろう。今度は焼かないパンをもってお出《い》でよ。」と、おしえました。それでギンは、そのあくる日は、パン粉《こ》の、こねたばかりで焼かないままのをもって、まだ日も出ない先に、いそいで湖水へ出かけました。
そのうちに日が山の上へ出て、だんだんに空へ上《のぼ》っていきました。ギンはそれからお午《ひる》じぶんまで、じっと岸にまっていました。しかし湖水にはただ黄色い日の光がきらきらするばかりで、昨日《きのう》の女の人はいつまでたっても出て来ませんでした。
それからとうとう夕方になりました。ギンはもうあきらめて家へかえろうともしました。
するとちょうどそこへ、夕日をうけた水の下から女の人がやっと出て来ました。見ると昨日よりも、もっともっとうつくしい人になっていました。ギンは、うれしさのあまりに口がきけなくて、だまってパン粉のこねたのをさし出しました。すると女はやっぱり顔をふって、
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「しめったパンをもった人よ、
私《あたし》はあなたのところへはいきたくはありません。」
[#ここで字下げ終わり]
こう言って、やさしくほほえんだと思うと、またそれなり水の下へかくれてしまいました。ギンはしかたなしにとぼとぼお家へかえりました。
母親はその話を聞くと、
「それではかたいパンもやわらかいパンもいやだというのだから、今度は半焼《はんやき》にしたのをもっていってごらんよ。」と言いました。
その晩ギンはちっとも寝ないで、夜《よ》が明けるのをまっていました。そしてやっとのこと空があかるくなると、いそいで湖水へ出ていきました。すると、間《ま》もなく雨がふって来ました。ギンはびっしょりになったまま、また夕方まで立っていました。けれども女の人はちょっとも出て来ません。しまいにはだんだんと湖水も暗くなって来ました。ギンはがっかりして、もうお家《うち》へかえろうと思いました。すると、ふいに一《ひ》とむれの牛が湖水の中からうき上って、のこのことこちらへ向って歩いて来ました。
ギンはそれを見て、ひょっとすると、あの牛の後《うしろ》から湖水の女が出て来るのではないかと思いながら、じっと見ていますと、ちゃんとそのとおりに、間もなく女の人も出て来ました。そして昨日よりもまたもっとうつくしい人になっていました。ギンはいきなりざぶりと水の中へ飛び下りてむかいにいきました。
女は今日《きょう》はギンがさし出したパンを、ほほえみながらうけとって、ギンと一しょに岸へ上《あが》りました。ギンはそのときに、女の右の靴《くつ》のひものむすびかたが、左のとちがっているのをちらと目にとめました。ギンは、ようやく口をきいて、
「私《わたし》はあなたが大好きです。どうか私の家の人になって下さい。」とたのみました。しかし女の人はよういに聞き入れてくれませんでした。ギンは言葉をつくして、いくども/\たのみました。すると湖水の女はしまいにやっと承知して、
「それではあなたのお嫁になりましょう。ですけれど、これから先、私が何の悪いこともしないのにむやみにおぶちになったりすると、三どめには、私はすぐに湖水へかえってしまいますがようございますか。」と、ねんをおしました。ギンは、
「そんな乱暴なことはけっしてしません。あなたをぶつくらいなら、それより先に私の手を切り取ってしまいます。」
こう言ってかたくちかいをしました。そうすると、どうしたわけか湖水の女はふいにだまって水の中へ下りて、牛と一しょに、ひょいと姿をかくしてしまいました。ギンはびっくりして、いきなり後《あと》を追って飛びこもうとしました。すると、後《うしろ》から、
「これこれおまちなさい。そんなにさわがなくてもいい。こっちへお出《い》でなさい。」と、だれだか大声でよびとめるものがありました。ふりむいて見ますと、少しはなれたところに、まっ白な髪をした品《ひん》のいいおじいさんが、二人の若い女の人をつれて立っています。ギンはこわごわそばへいきました。よくみると、その女の一人はたった今水の中へ消えたばかりの湖水の女でした。それからもう一人の女を見ますと、ふしぎなことには、それもさっきじぶんのお嫁になると言った、同じ湖水の女でした。ギンはじぶんの目がどうかなっているのではないかと思いました。おじいさんは、
「これは二人とも私《わたし》の娘だが、おまえさんはこの二人のどちらが好きなのか、それをまちがいなくおしえておくれ。そうすれば、のぞみどおりお嫁に上げましょう。」と、やさしく言ってくれました。
ギンは一しょうけんめいに二人を見くらべましたが、二人とも顔も背《せい》も着物もかざりも、そっくり同《おんな》じで、ちっとも見わけがつきません。もしまちがえたらそれきりだと思うと、ギンは気が気ではありませんでした。けれども、いつまで見くらべていても判断がつかないので、どうしたらいいかとこまっていますと、一人の方が、片足をかすかに前へ出しました。目には見えないくらい、ほんの少し動かしただけでしたが、ギンにはその片足の靴のひもが、さっきちらと見たように、ちがった結びかたがしてあるのが目につきました。ギンはやっとそれで見わけがついたので、
「わかりました。この人です。」と、いさんでまえへ出て、その女をゆびさしました。おじいさんは、
「なるほどよくあたった。それではこの娘をあげるからお家へつれておかえりなさい。私は、娘が一と息で数えるだけの、羊と牛と山羊《やぎ》と馬と豚を、お祝いにやりましょう。しかしお前さんが、これからさきこの娘を、何のつみもないのに、三べんおぶちだと、すぐにこちらへとりもどしてしまいますよ。」と言いました。ギンはおおよろこびで、
「いえいえけっしてそんなことはいたしません。この人をぶつくらいなら、私の手の方を先に切ってしまいます。」と、あらためておじいさんにもちかいました。おじいさんはそれを聞くと安心して娘に向って、おまえのほしいと思う羊の数《かず》を、一と息で言ってごらんと言いました。娘はすぐに、
「一《ひい》、二《ふう》、三《みい》、四《よう》、五《いつ》。一《ひい》、二《ふう》、三《みい》、四《よう》、五《いつ》。一《ひい》、二《ふう》、三《みい》、四《よう》、五《いつ》。」と、一度の息がつづくかぎり五つずつ数をよみました。すると、それだけの羊が、すぐに水の下から出て来ました。
おじいさんは、今度は牛の数を一と息でお言いなさいと言いました。娘がまた同じように、
「一《ひい》、二《ふう》、三《みい》、四《よう》、五《いつ》。一《ひい》、二《ふう》、三《みい》、四《よう》、五《いつ》。一《ひい》、二《ふう》、三《みい》、四《よう》、五《いつ》。」と息がつづくまで数えますと、その数だけの牛が、また一どに湖水の中から出て来ました。同じようにして、そのつぎには山羊、山羊のつぎには馬、それから豚というふうに、すっかりそろいました。そして牛は牛、山羊は山羊でじゅんじゅんにならびました。それと一しょに、おじいさんともう一人の娘は、いつの間《ま》にかふいに姿をかくしてしまいました。
湖水の女とギンとは、この上もなく仲のよい夫婦になって、たのしくくらしました。
二
二人の間《あいだ》にはかわいらしい男の子が三人生れました。そのうちに一ばん上の子どもが七つになりました。
すると、或《ある》とき、知合《しりあい》の家に御婚礼があって、ギンも夫婦でよばれていきました。二人はじぶんたちの馬が草を食べている野原をとおっていきました。そうすると女は、途中で、あんまり遠いから、私《あたし》はよして家《うち》へかえりたいと言いました。ギンは、
「だって今日《きょう》ばかりは、どうしても二人でいかなければいけない。歩くのがいやなら、お前だけは馬でいけばいい。あすこにいる馬をどれか一ぴきつかまえておおき。私《わたし》はその間《あいだ》に家へいって、手綱《たづな》と鞍《くら》をもって来るから。」と言いました。女は、
「ようございます。それではちゃんとつかまえておきますから、ついでにテイブルの上においてある私の手袋をもって来て下さい。」と言いました。
ギンは急いで引きかえして、鞍と手綱と、手袋とをもって出て来ますと、女は、さっきからそのままじっとそこに立ったきりでいました。ギンは、
「何をぼんやりしているの。早く馬をつかまえてお出《い》でよ。」と、もって来た手袋の先でじょうだんにちょいと肩をたたきました。
「まあ、あなたはこれで一つ私をおぶちになりましたよ。私が何の悪いこともしないのに。」
女はため息をつきながらこう言いました。ギンはこの人をもらったときに約束したことを、すっかり忘れていました。
女は間《ま》もなく馬に乗って、二人で向うの家《うち》へいきました。
それからまたいく年もたってから、二人は或とき、今度は或|家《うち》の名つけの祝いによばれていきました。人々はそれぞれ席について、ゆかいにさかずきを上げました。すると湖水の女は、ふいに涙をながして、一人でかなしそうにすすり泣きはじめました。
ギンはおどろいて、そっとその肩をたたいて、どうしたのかと聞きました。
「だってあの罪のない赤ん坊は、あんなにからだがひよわいんですもの。あれではせっかく生れて来てもこの世の喜びというものをうけることは出来ません。見ていてごらんなさい。きっと病気で苦しみとおしてなくなってしまいますから。ですがあなたこれで二度|私《あたし》をおぶちになりましたよ。」
こう言われて、ギンは、しまったと思いました。もうあと一度になりました。もう一度うっかりぶちでもしたら、女はもうそれきり水の中へかえってしまうのです。三人の子どもたちにとってもだいじなお母《かあ》さまなのですから、いかれてしまうと、それこそたいへんでした。
ギンはそれからは毎日気をつけて、そんなことにならないように、要心《ようじん》していました。
それから間もなく、ギン夫婦が名つけの祝いによばれていった赤ん坊が、ひどい病気をして死んでしまいました。
ギン夫婦はそのおとむらいにいきました。そうすると、湖水の女はみんなが泣きかなしんでいるまんまえで、うれしそうにはっはと
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