っておしまいになりまして、ひとりで海ばたに立って、おいおい泣《な》いておいでになりました。そうすると、そこへ塩椎神《しおつちのかみ》という神が出てまいりまして、
「もしもし、あなたはどうしてそんなに泣いておいでになるのでございます」と聞いてくれました。弟さまは、
「私《わたし》はおあにいさまのつり針を借りてりょうをして、その針を海の中へなくしてしまったのです。だから代わりの針をたくさんこしらえて、それをお返しすると、おあにいさまは、どうしてももとの針を返せとおっしゃってお聞きにならないのです」
こう言って、わけをお話しになりました。
塩椎神《しおつちのかみ》はそれを聞くと、たいそうお気の毒に思いまして、
「それでは私がちゃんとよくしてさしあげましょう」と言いながら、大急ぎで、水あかが少しもはいらないように、かたく編んだ、かごの小船《こぶね》をこしらえて、その中へ火遠理命《ほおりのみこと》をお乗せ申しました。
「それでは私が押《お》し出しておあげ申しますから、そのままどんどん海のまんなかへ出ていらっしゃいまし。そしてしばらくお行きになりますと、向こうの波の間によい道がついておりますから、それについてどこもでも流れておいでになると、しまいにたくさんのむねが魚のうろこのように立ち並《なら》んだ、大きな大きなお宮へお着きになります。それは綿津見《わたつみ》の神という海の神の御殿《ごてん》でございます。そのお宮の門のわきに井戸《いど》があります。井戸の上にかつらの木がおいかぶさっておりますから、その木の上にのぼって待っていらっしゃいまし。そうすると海の神の娘《むすめ》が見つけて、ちゃんといいようにとりはからってくれますから」と言って、力いっぱいその船を押し出してくれました。
二
命《みこと》はそのままずんずん流れてお行きになりました。そうするとまったく塩椎神《しおつちのかみ》が言ったように、しばらくして大きな大きなお宮へお着きになりました。
命はさっそくその門のそばのかつらの木にのぼって待っておいでになりました。そうすると、まもなく、綿津見神《わたつみのかみ》の娘《むすめ》の豊玉媛《とよたまひめ》のおつきの女が、玉の器《うつわ》を持って、かつらの木の下の井戸《いど》へ水をくみに来ました。
女は井戸の中を見ますと、人の姿《すがた》がうつっているので、ふしぎに思って上を向いて見ますと、かつらの木にきれいな男の方がいらっしゃいました。
命は、その女に水をくれとお言いになりました。女は急いで玉の器にくみ入れてさしあげました。
しかし命はその水をお飲みにならないで、首にかけておいでになる飾《かざ》りの玉をおほどきになって、それを口にふくんで、その玉の器の中へ吐《は》き入れて、女にお渡しになりました。女は器を受け取って、その玉をとり出そうとしますと、玉は器の底に固《かた》くくっついてしまって、どんなにしても離《はな》れませんでした。それで、そのままうちの中へ持ってはいって、豊玉媛にその器ごとさし出しました。
豊玉媛《とよたまひめ》は、その玉を見て、
「門口《かどぐち》にだれかおいでになっているのか」と聞きました。
女は、
「井戸のそばのかつらの木の上にきれいな男の方がおいでになっています。それこそは、こちらの王さまにもまさって、それはそれはけだかい貴《とうと》い方でございます。その方が水をくれとおっしゃいましたから、すぐに、この器へくんでさしあげますと、水はおあがりにならないで、お首飾りの玉を中へお吐き入れになりました。そういたしますと、その玉が、ご覧《らん》のように、どうしても底から離れないのでございます」と言いました。
媛《ひめ》は命《みこと》のお姿を見ますと、すぐにおとうさまの海の神のところへ行って、
「門口にきれいな方がいらしっています」と言いました。
海の神は、わざわざ自分で出て見て、
「おや、あのお方は、大空からおくだりになった、貴い神さまのお子さまだ」と言いながら、急いでお宮へお通し申しました。そしてあしかの毛皮を八|枚《まい》重《かさ》ねて敷《し》き、その上へまた絹の畳《たたみ》を八枚重ねて、それへすわっていただいて、いろいろごちそうをどっさり並《なら》べて、それはそれはていねいにおもてなしをしました。そして豊玉媛をお嫁《よめ》にさしあげました。
それで命《みこと》はそのまま媛《ひめ》といっしょにそこにお住まいになりました。そのうちに、いつのまにか三年という月日がたちました。
すると命はある晩、ふと例の針《はり》のことをお思い出しになって、深いため息をなさいました。
豊玉媛《とよたまひめ》はあくる朝、そっと父の神のそばへ行って、
「おとうさま、命《みこと》はこのお宮に三年もお住まいになっていても、これまでただの一度もめいったお顔をなさったことがないのに、ゆうべにかぎって深いため息をなさいました。なにか急にご心配なことがおできになったのでしょうか」と言いました。
海の神はそれを聞くと、あとで命に向かって、
「さきほど娘《むすめ》が申しますには、あなたは三年の間こんなところにおいでになりましても、ふだんはただの一度も、ものをお嘆《なげ》きになったことがないのに、ゆうべはじめてため息をなさいましたと申します。何かわけがおありになるのでございますか。いったいいちばんはじめ、どうしてこの海の中なぞへおいでになったのでございます」こう言っておたずね申しました。
命はこれこれこういうわけで、つり針《ばり》をさがしに来たのですとおっしゃいました。
海の神はそれを聞くと、すぐに海じゅうの大きな魚《さかな》や小さな魚を一ぴき残さず呼《よ》び集めて、
「この中にだれか命の針をお取り申した者はいないか」と聞きました。すると魚たちは、
「こないだから雌《め》だいがのどにとげを立てて物が食べられないで困《こま》っておりますが、ではきっとお話のつり針をのんでいるに相違ございません」と言いました。
海の神はさっそくそのたいを呼んで、のどの中をさぐって見ますと、なるほど、大きなつり針を一本のんでおりました。
海の神はそれを取り出して、きれいに洗って命にさしあげました。すると、それがまさしく命のおなくしになったあの針でした。海の神は、
「それではお帰りになって、おあにいさまにお返しになりますときには、
いやなつり針、
わるいつり針、
ばかなつり針。
とおっしゃりながら、必ずうしろ向きになってお渡しなさいまし。それから、こんどからはおあにいさまが高いところへ田をお作りになりましたら、あなたは低いところへお作りなさいまし。そのあべこべに、おあにいさまが低いところへお作りになりましたら、あなたは高いところへお作りになることです。すべて世の中の水という水は私が自由に出し入れするのでございます。おあにいさまは針のことでずいぶんあなたをおいじめになりましたから、これからはおあにいさまの田へはちっとも水をあげないで、あなたの田にばかりどっさり入れておあげ申します。ですから、おあにいさまは三年のうちに必ず貧乏《びんぼう》になっておしまいになります。そうすると、きっとあなたをねたんで殺しにおいでになるに相違ございません。そのときには、この満潮《みちしお》の玉を取り出して、おぼらしておあげなさい。この中から水がいくらでもわいて出ます。しかし、おあにいさまが助けてくれとおっしゃられておわびをなさるなら、こちらのこの干潮《ひしお》の玉を出して、水をひかせておあげなさいまし。ともかく、そうして少しこらしめておあげになるがようございます」
こう言って、そのたいせつな二つの玉を命《みこと》にさしあげました。それからけらいのわにをすっかり呼《よ》び集めて、
「これから大空の神のお子さまが陸の世界へお帰りになるのだが、おまえたちはいく日あったら命をお送りして帰ってくるか」と聞きました。
わにたちは、お互いにからだの大きさにつれてそれぞれかんじょうして、めいめいにお返事をしました。その中で六|尺《しゃく》ばかりある大わには、
「私は一日あれば行ってまいります」と言いました。海の神は、
「それではおまえお送り申してくれ。しかし海を渡るときに、けっしてこわい思いをおさせ申してはならないぞ」とよく言い聞かせた上、その首のところへ命をお乗せ申して、はるばるとお送り申して行かせました。すると、わにはうけあったとおりに、一日のうちに命をもとの浜までおつれ申しました。
命はご自分のつるしておいでになる小さな刀をおほどきになって、それをごほうびにわにの首へくくりつけておかえしになりました。
命はそれからすぐに、おあにいさまのところへいらしって、海の神が教えてくれたとおりに、
いやなつり針《ばり》、
悪いつり針、
ばかなつり針。
と言い言い、例のつり針を、うしろ向きになってお返しになりました。それから田を作るにも海の神が言ったとおりになさいました。
そうすると、命の田からは、毎年どんどんおこめが取れるのに、おあにいさまの田には、水がちっとも来ないものですから、おあにいさまは、三年の間にすっかり貧乏《びんぼう》になっておしまいになりました。
するとおあにいさまは、あんのじょう、命のことをねたんで、いくどとなく殺しにおいでになりました。命はそのときにはさっそく満潮《みちしお》の玉を出して、大水をわかせてお防ぎになりました。おあにいさまは、たんびにおぼれそうになって、助けてくれ、助けてくれ、とおっしゃいました。命はそのときには干潮《ひしお》の玉を出してたちまち水をおひかせになりました。そんなわけで、おあにいさまも、しまいには弟さまの命にはとてもかなわないとお思いになり、とうとう頭をさげて、
「どうかこれまでのことは許しておくれ。私はこれからしょうがい、夜昼おまえのうちの番をして、おまえに奉公するから」と、かたくお誓《ちか》いになりました。
ですから、このおあにいさまの命のご子孫は、後の代《よ》まで、命が水におぼれかけてお苦しみになったときの身振《みぶ》りをまねた、さまざまなおかしな踊《おど》りを踊るのが、代々きまりになっておりました。
三
そのうちに、火遠理命《ほおりのみこと》が海のお宮へ残しておかえりになった、お嫁《よめ》さまの豊玉媛《とよたまひめ》が、ある日ふいに海の中から出ていらしって、
「私はかねて身重《みおも》になっておりましたが、もうお産をいたしますときがまいりました。しかし大空の神さまのお子さまを海の中へお生み申してはおそれ多いと存じまして、はるばるこちらまで出てまいりました」とおっしゃいました。
それで命《みこと》は急いで、うぶやという、お産をするおうちを、海ばたへおたてになりました。その屋根はかやの代わりに、うの羽根を集めておふかせになりました。
するとその屋根がまだできあがらないうちに、豊玉媛は、もう産けがおつきになって、急いでそのうちへおはいりになりました。
そのとき媛《ひめ》は命に向かって、
「すべての人がお産をいたしますには、みんな自分の国のならわしがありまして、それぞれへんなかっこうをして生みますものでございます。それですから、どうぞ私がお産をいたしますところも、けっしてご覧《らん》にならないでくださいましな」と、かたくお願いしておきました。命は媛《ひめ》がわざわざそんなことをおっしゃるので、かえって変だとおぼしめして、あとでそっと行ってのぞいてご覧になりました。
そうすると、たった今まで美しい女であった豊玉媛が、いつのまにか八ひろもあるような恐ろしい大わにになって、うんうんうなりながらはいまわっていました。命はびっくりして、どんどん逃《に》げ出しておしまいになりました。
豊玉媛はそれを感づいて、恥ずかしくて恥ずかしくてたまらないものですから、お子さまをお生み申すと、命に向かって、
「私はこれから、しじゅう海を往来して、お目にかかりにまいりますつもりで
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