みこと》は、そのことを早くもお聞きつけになったので、すぐに使いを出して、若郎子《わかいらつこ》にお知らせになりました。
 若郎子《わかいらつこ》はそれを聞くとびっくりなすって、大急ぎでいろいろの手はずをなさいました。
 皇子《おうじ》はまず第一に、宇治川《うじがわ》のほとりへ、こっそりと兵をしのばせておおきになりました。それから、宇治《うじ》の山の上に絹の幕を張り、とばりを立てまわして、一人のご家来《けらい》を、りっぱな皇子のようにしたてて、その姿《すがた》が山の下からよく見えるように、とばりの一方をあけて、その中のいすにかけさせておおきになりました。そして、そこへいろいろの家来たちを、うやうやしく出たりはいったりおさせになりました。
 ですから、遠くから見ると、だれの目にも、そこには若郎子《わかいらつこ》ご自身がお出むきになっているように見えました。
 皇子はそれといっしょに、大山守命《おおやまもりのみこと》が下の川をおわたりになるときに、うまくお乗せするように、船をわざとたった一そうおそなえつけになり、その船の中のすのこには、さなかずらというつる草をついてべとべとの汁《しる》にしたものをいちめんに塗りつけて、人が足を踏《ふ》みこむとたちまち滑《すべ》りころぶようなしかけをさせてお置きになりました。
 そしてご自分自身は、粗末《そまつ》なぬのの着物をめし、いやしい船頭のようにじょうずにお姿《すがた》をお変えになって、かじを握《にぎ》って、その船の中に待ち受けておいでになりました。
 すると大山守命《おおやまもりのみこと》は、おひきつれになった兵士を、こっそりそこいらへ隠《かく》れさせておおきになり、ご自分は、よろいの上へ、さりげなく、ただのお召物《めしもの》をめして、お一人で川の岸へ出ておいでになりました。
 するとそちらの山の上にりっぱな絹のとばりなどが張りつらねてあるのがすぐにお目にとまりました。
 命《みこと》はそのとばりの中にいかめしくいすにかけている人を、若郎子《わかいらつこ》だと思いこんでおしまいになりました。それでさっそくその船にお乗りになって、向こうへおわたりになりかけました。
 命は船頭に向かって、
「おい、あすこの山に大きなておいじしがいるという話だが、ひとつそのししをとりたいものだね。どうだ、おまえとってくれぬか」とお言いになりました。
 船頭の皇子は、
「いえ、それはとてもだめでございます」とお答えになりました。
「なぜだめだ」
「あのししは、これまでいろんな人がとろうとしましたが、どうしてもとれません。ですから、いくらあなたが欲《ほ》しいとおぼしめしても、とてもだめでございます」
 こうお答えになるうちに、船はもはやちょうど川のまん中あたりへ来ました。すると皇子《おうじ》はいきなり、そこでどしんと船を傾《かたむ》けて、命《みこと》をざんぶと川の中へ落としこんでおしまいになりました。
 命はまもなく水の上へ浮き出て、顔だけ出して流され流されなさりながら、

  ああわしは押《お》し流される。
  だれかすばやく船を出して、
  助けに来てくれよ。

という意味をお歌いになりました。
 するとそれといっしょに、さきに若郎子《わかいらつこ》が隠《かく》しておおきになった兵士たちが、わあッと一度に、そちこちからかけだして来て、命を岸へ取りつかせないように、みんなで矢《や》をつがえ構《かま》えて、追い流し追い流ししました。
 ですから命はどうすることもおできにならないで、そのまま訶和羅前《かわらのさき》というところまで流れていらしって、とうとうそこでおぼれ死にに死んでおしまいになりました。
 若郎子《わかいらつこ》の兵士たちは、ぶくぶくと沈《しず》んだ命《みこと》のお死がいを、かぎで探《さぐ》りあててひきあげました。
 若郎子《わかいらつこ》はそれをご覧になりながら、
「わしは伏《ふ》せ勢《ぜい》の兵たちに、もう矢を射《い》放《はな》させようか、もう射殺させようかと、いくども思い思いしたけれど、一つにはお父上のことを思いかえし、つぎには妹たちのことを思い出して、同じお一人のお父上の子、同じあの妹たちの兄でありながら、それをむざむざ殺すのはいたわしいので、とうとう矢一本射放すこともできないでしまった」
という意味をお歌いになり、そのまま大和《やまと》へおひきあげになりました。
 そしてお兄上のお死がいを奈良《なら》の山にお葬《ほうむ》りになりました。

       五

 大雀命《おおささぎのみこと》は、それでいよいよお父上のおおせのとおりに、若郎子皇子《わかいらつこおうじ》にお位におつきになることをおすすめになりました。
 しかし皇子は、お父上のおあとはおあにいさまがお継《つ》ぎになるのがほんとうです。おあにいさまをさしおいてお位にのぼるなぞということは、私にはとてもできません。どうぞお許しくださいとおっしゃって、どこまでもお兄上の命《みこと》のお顔をお立てになろうとなさいました。
 しかし命は命で、いかなることがあっても、お父上のお言いつけにそむくことはできないとお言いとおしになり、長い間お二人でお互《たが》いに譲《ゆず》り合っていらっしゃいました。
 そのときある海人《あま》が、天皇へ献上《けんじょう》する物を持ってのぼって来ました。
 その海人が、大雀命《おおささぎのみこと》のところへ伺《うかが》いますと、命《みこと》は、それは若郎子皇子《わかいらつこおうじ》に奉《たてまつ》れ、あの方が天皇でいらっしゃるとおっしゃって、お受けつけになりませんし、それではと言って皇子の方へうかがえば、それはお兄上の方へ献《けん》ぜよとおおせになりました。
 海人《あま》はあっちへ行ったり、こっちへ来たり、それが二度や三度ではなかったので、とうとう行ったり来たりにくたびれて、しまいにはおんおん泣《な》きだしてしまいました。そのために、「海人ではないが、自分のものをもてあまして泣く」ということわざさえできました。
 お二人はそれほどまでになすって、ごめいめいにお義理をつくしていらっしゃいましたが、そのうちに、若郎子皇子《わかいらつこおうじ》がふいにお若死《わかじ》にをなすったので、大雀命《おおささぎのみこと》もやむをえず、ついにお位におつきになりました。後の代から仁徳天皇《にんとくてんのう》とお呼《よ》び申すのがすなわちこの天皇でいらっしゃいます。
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 難波《なにわ》のお宮

       一

 仁徳天皇《にんとくてんのう》はお位におのぼりになりますと、難波《なにわ》の高津《たかつ》の宮《みや》を皇居にお定めになり、葛城《かつらぎ》の曽都彦《そつひこ》という人の娘《むすめ》の岩野媛《いわのひめ》という方を改めて皇后にお立てになりました。
 天皇がまだ皇子《おうじ》大雀命《おおささぎのみこと》でいらっしゃるとき、ある年|摂津《せっつ》の日女島《ひめじま》という島へおいでになって、そこでお酒盛《さかもり》をなすったことがありました。すると、たまたまその島にがんが卵《たまご》をうんでおりました。皇子は、日本でがんが卵をうんだということは、これまで一度もお聞きになったことがないものですから、たいそうふしぎにおぼしめして、あとで武内宿禰《たけのうちのすくね》を召《め》して、
「そちは世の中にまれな長命の人であるが、いったい日本でがんが卵をうんだという話を聞いたことがあるか」とこういう意味を歌に歌っておたずねになりました。
 宿禰《すくね》は、
「なるほど、それはごもっとものおたずねでございます。私もこれほど長生きをいたしておりますが、今日まで、かつてそういうためしを聞きましたことがございません」と、同じように歌に歌って、こうお答え申しあげた後、おそばにあったお琴《こと》をお借り申して、
「これはきっと、あなたさまがついに天下をお治めになるというめでたい先ぶれに相違《そうい》ございません」と、こういう意味の歌をお琴《こと》をひいて歌いました。皇子《おうじ》はそのとおり、十五人もいらしったごきょうだいの中から、しまいにお父上の天皇のおあとをお継《つ》ぎになりました。
 ご即位《そくい》になった後、天皇は、あるとき、高い山におのぼりになって四方の村々をお見しらべになりました。そしてうちしおれておおせになりました。
「見わたすところ、どの村々もただひっそりして、家々からちっとも煙があがっていない。これではいたるところ、人民たちが炊《た》いて食べる物がないほど貧窮《ひんきゅう》しているらしい。どうかこれから三年の間は、しもじもから、いっさい租税《そぜい》をとるな。またすべての働きに使うのを許してやれ」とおおせになりました。
 それでそのまる三年の間というものは、宮中《きゅうちゅう》へはどこからも何一つお納物《おさめもの》をしないので、天皇もそれはそれはひどいご不自由をなさいました。たとえばお宮が破れこわれても、お手もとにはそれをおつくろいになるご費用もおありになりませんでした。しかし天皇はそれでも寸分《すんぶん》もおいといにならないで、雨がひどく降るたんびには、おへやの中へおけをひき入れて、ざあざあと漏《も》り入る雨《あま》もれをお受けになり、ご自分自身はしずくのおちないところをお見つけになって、御座所《ござしょ》を移し移ししておしのぎになりました。
 それから三年の後に、再び山にのぼってご覧《らん》になりますと、こんどはせんとはすっかりうって変わって、お目の及《およ》ぶ限《かぎ》り、どの村々にも煙がいっぱい、勢いよく立ちのぼっておりました。天皇はそれをご覧になって、みなの者も、もうすっかりゆたかになったとおっしゃって、ようやくご安心なさいました。そして、そこではじめて租税《そぜい》や夫役《ぶやく》をおおせつけになりました。
 すると人民は、もう十分にたくわえもできていましたので、お納物《おさめもの》をするにも、使い働きにあがるのにも、それこそ楽々とご用を承《うけたまわ》ることができました。
 天皇はしもじもに対して、これほどまでに思いやりの深い方でいらっしゃいました。ですから後の代《よ》からも永《なが》くお慕《した》い申しあげてそのご一代《いちだい》を聖帝《せいてい》の御代《みよ》とお呼《よ》び申しております。

       二

 この天皇の皇后でいらしった岩野媛《いわのひめ》は、それはそれは、たいへんにごしっとのはげしいお方で、ちょっとのことにも、じきに足ずりをして、火がついたようにお騒ぎたてになりました。それですから、宮中《きゅうちゅう》に召《め》し使われている婦人たちは、天皇のおへやなぞへは、うっかりはいることもできませんでした。
 あるとき天皇はそのころ吉備《きび》といっていた、今の備前《びぜん》、備中《びっちゅう》地方《ちほう》の、黒崎《くろさき》というところに、海部直《あまのあたえ》という者の子で、黒媛《くろひめ》というたいそうきりょうのよい娘《むすめ》がいるとお聞きになり、すぐに召《め》しのぼせて宮中でお召し使いになりました。
 ところが皇后がことごとにつけて、あまりにねたみおいじめになるものですから、黒媛《くろひめ》はたまりかねてとうとうお宮を逃《に》げ出しておうちへ帰ってしまいました。
 そのとき天皇は、高殿《たかどの》にお上りになって、その黒媛《くろひめ》の乗っている船が難波《なにわ》の港を出て行くのをご覧《らん》になりながら、

  かわいそうに、あそこに黒媛《くろひめ》がかえって行く。
  あの沖《おき》に、たくさんの小船《こぶね》にまじって、あの女の船が出て行くよ。

とこういう意味のお歌をお歌いになりました。
 すると皇后は、そのことをお聞きになって、ひどく怒《おこ》っておしまいになり、すぐに人をやって、黒媛《くろひめ》をむりやりに船からひきおろさせて、はるかな吉備《きび》の国まで、わざと歩いておかえしになりました。
 天皇はその後も、黒媛《くろひめ》のことをしじゅうあわれに
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