天皇の永《なが》い間のご病気を、たちまちおなおし申しあげました。そのために天皇はついにおん年七十八までお生きのびになりました。
 天皇は日本じゅうの多くの部族の中で、めいめいいいかげんなかってな姓《せい》を名のっているものが多いのをお嘆《なげ》きになり、大和《やまと》のある村へ玖訂瓮《くかえ》といって、にえ湯のたぎっているかまをおすえになって、日本じゅうのすべての氏姓《しせい》を正しくお定めになりました。そのにえ湯の中へ一人一人手を入れさせますと、正直《しょうじき》にほんとうの姓《せい》を名のっている者は、その手がどうにもなりませんが、偽《いつわ》りを申し立てているものは、たちまち手が焼けただれてしまうので、いちいちうそとほんとうとを見わけることができました。

       五

 天皇がおかくれになったあとにはいちばん上の皇子《おうじ》の、木梨軽皇子《きなしのかるのおうじ》がお位におつきになることにきまっておりました。ところが皇子はご即位《そくい》になるまえに、お身持ちの上について、ある言うに言われないまちがいごとをなすったので、朝廷《ちょうてい》のすべての役人やしもじもの人民たちがみんな皇子をおいとい申して、弟さまの穴穂王《あなほのみこ》のほうへついてしまいました。
 軽皇子《かるのおうじ》はこれでは、うっかりしていると、穴穂王《あなほのみこ》方《がた》からどんなことをしむけるかもわからないとお怖《おそ》れになり、大前宿禰《おおまえのすくね》、小前宿禰《こまえのすくね》という、きょうだい二人の大臣のうちへお逃《に》げこみになりました。そしてさっそくいくさ道具をおととのえになり、軽矢《かるや》といって、矢《や》の根を銅でこしらえた矢などをも、どっさりこしらえて、待ちかまえていらっしゃいました。
 それに対して、穴穂王《あなほのみこ》のほうでもぬからず戦《いくさ》の手配《てくば》りをなさいました。こちらでも穴穂矢《あなほや》といって、後の代《よ》の矢と同じように鉄の矢じりのついた矢を、どんどんおこしらえになりました。そしてまもなく王《みこ》ご自身が軍務をおひきつれになって、大前《おおまえ》、小前《こまえ》の家をお攻《せ》め囲《かこ》みになりました。
 王《みこ》はちょうどそのとき急に降り出したひょうの中を、まっ先に突進《とっしん》して、門前へ押《お》しよせていらっしゃいました。
「さあ、みんなもわしのとおり進んで来い。ひょうの雨は今にやむ。そのひょうのやむように、すべてを片づけてしまうのだ。さあ来い来い」という意味をお歌いになって、味方の兵をお招きになりました。
 すると大前《おおまえ》、小前《こまえ》の宿禰《すくね》は、手をあげひざをたたいて、歌い踊《おど》りながら出て来ました。
「何をそんなにお騒《さわ》ぎになる。宮人《みやびと》のはかまのすそのひもについた小さな鈴《すず》、たとえばその鈴が落ちたほどの小さなことに、宮人も村の人も、そんなに騒ぐにはおよびますまい」
 こういう意味の歌を歌いながら穴穂王《あなほのみこ》のご前《ぜん》に出て来て、
「もしあなたさま、軽皇子《かるのおうじ》さまならわざわざお攻めになりますには及びません。ご同腹《どうふく》のお兄上をお攻めになっては人が笑《わら》います。皇子さまは私がめしとってさし出します」と申しあげました。
 それで穴穂王《あなほのみこ》は囲みを解《と》いて、ひきあげて待っておいでになりますと、二人の宿禰《すくね》は、ちゃんと軽皇子《かるのおうじ》をおひきたて申してまいりました。

       六

 軽皇子《かるのおうじ》には、軽大郎女《かるのおおいらつめ》とおっしゃるたいそう仲《なか》のよいご同腹《どうふく》のお妹さまがおありになりました。大郎女《おおいらつめ》は世《よ》にまれなお美しい方で、そのきれいなおからだの光がお召物《めしもの》までも通して光っていたほどでしたので、またの名を衣通郎女《そとおしのいらつめ》と呼《よ》ばれていらっしゃいました。
 穴穂王《あなほのみこ》の手《て》にお渡《わた》されになった軽皇子《かるのおうじ》は、その仲のよい大郎女《おおいらつめ》のお嘆《なげ》きを思いやって、
「ああ郎女《いらつめ》よ。ひどく泣《な》くと人が聞いて笑《わら》いそしる。羽狹《はさ》の山のやまばとのように、こっそりと忍《しの》び泣きに泣くがよい」という意味の歌をお歌いになりました。
 穴穂王《あなほのみこ》は、軽皇子《かるのおうじ》を、そのまま伊予《いよ》へ島流しにしておしまいになりました。そのとき大郎女《おおいらつめ》は、
「どうぞ浜べをお通りになっても、かきがらをお踏《ふ》みになって、けがをなさらないように、よく気をつけてお歩きくださいまし」という意味の歌を、泣き泣き
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