《みとど》けておいてくれた」とおほめになり、置目老媼《おきめのおみな》という名をおくだしになりました。そして、とうぶんそのまま宮中《きゅうちゅう》へおとどめになって、おてあつくおもてなしになった後、改めてお宮の近くの村へお住ませになり、毎日一度はかならずおそばへめして、やさしくお言葉《ことば》をかけておやりになりました。天皇はそのためにわざわざお宮の戸のところへ大きな鈴《すず》をおかけになり、置目《おきめ》をおめしになるときは、その鈴をお鳴らしになりました。
後には置目《おきめ》は、
「私もたいそう年をとりましたので、生まれた村へ帰りたくなりました」と申しあげました。
天皇は置目《おきめ》のおねがいをお許しになり、それではもうあすからそなたを見ることもできないのかとおっしゃる意味の、お別れの歌をお歌いになりながら、わざわざ見送りまでしておやりになりました。
つぎに天皇は、昔《むかし》お兄上とお二人で大和《やまと》からお逃《に》げになる途中で、おべんとうを奪《うば》い取った、あのしし飼《かい》の老人をおさがし出しになって大和《やまと》の飛鳥川《あすかがわ》の川原《かわら》で死刑《しけい》にお行ないになりました。その悪者の老人は志米須《しめす》というところに住んでおりました。天皇はなおその上の刑罰《けいばつ》として、その老人の一族の者たちのひざの筋《すじ》を断《た》ち切らせておしまいになりました。これらの者たちは、その後|大和《やまと》へのぼるのに、いつもびっこを引いて出て来ました。
四
天皇は、お父上をお殺しになった雄略天皇《ゆうりゃくてんのう》を、深くお恨《うら》みになりまして、せめてそのみ霊《たま》に向かって復しゅうをしようというおぼしめしから、人をやって、河内《かわち》の多治比《たじひ》というところにある、天皇のみささぎをこわさせようとなさいました。
するとお兄上の意富祁王《おおけのみこ》が、
「天皇のみささぎをこわすためなら、ほかのものをやってはいけません。私《わたし》が自分で行っておぼしめしどおりこわして来ます」とご奏上《そうじょう》になりました。天皇は、
「それではあなたがおいでになるがよい」とお許しになりました。意富祁王《おおけのみこ》は急いでお出かけになりました。そしてまもなくお帰りになって、
「ちゃんとこわしてまいりました
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