へにどこかでわしを見かけたことでもあるのかい。」と聞きました。
「はッは、あの事件をしらないでどうするんだ。世間中のうはさに上《のぼ》つた犯罪ぢやないか。だが、もう古いむかしのことだから、くはしい話はわすれたよ。」
「しかし、おまいさんは、あの事件のほんとうの犯人を知つてるんだらう?」とイワンはつッこみました。するとマカールは笑つて、
「それやおまい、ほんとうの犯人も何も、げんざい、血のついたナイフが荷物の中から出て来た以上は、その人間が殺したんだらうぢやないか。かりに、ほかのやつが、人の荷物の中へ入れこんだものとしても、その本人がつかまらなけやァだめぢやないか。だが考へて見てもわかることだ、人が頭の下においてゐる荷物の中へ、どうしてほかのやつがナイフなんぞをおしこめられるかい。そんなことをすれば、眠つてる当人はすぐに目をさますぢやないか。」
イワンはその言ひぐさを聞いて、ふゝん、あの商人を殺したのはこいつだなとかんづきました。
イワンはだまつて立ち上つて、あつちへいつてしまひました。
四
その晩イワンは何ともたとへやうもないほど悲しい、いやな気もちにおさへられて、眠らうとしても寝つかれません。これまでわすれようとしてゐた、いろ/\のことが、一晩中入りかはり目のまへに浮んで来ました。あのニズニイの市へ出かけるときに、門口へおくつて出た、そのときのおかみさんのすがたも目についてはなれません。おかみさんの目の色、笑ひ声、話し声までが、まざまざと目のまへに見えます。それから二人の子どもたちの顔もまざ/\と浮んで来ました。二人とも、あのときのまゝの小さな子で、一人はぐわいとうを着て立つてをり、一人は母親の胸の上にだかれてゐます。それからつゞいて、年もわかく、ゆかいにくらしてゐたじぶんのことも思ひかへされました。あのとき捕縛されるぢきまへに、あの村の宿屋の戸口に坐《すわ》つてギターをひいてゐたすがたも目に見るやうです。それ以来、ずゐぶんながい間、世の中の苦労といふものからはなれてゐるといふことをも、つく/″\考へました。と、こんどは、あのときむちでうたれつゞけたあの監獄の光景、執行官、まはりに立つてゐた人々、くさり、すべての罪人たち、こゝへ来てから二十六年の間のすつかりの出来ごとを考へかへし、それからじぶんが年のわりよりもずつと老いぼけてしまつたことも考へ
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