しても、畫面は必しも、其ばかりではない。
慧心の代表作なる、高野山の廿五菩薩來迎圖にしても、興福院の來迎圖にしても、知恩院の阿彌陀十體像にしても、皆山から來向ふ迅雲に乘つた姿ではない。だから自ら、山は附隨して來るであらうが、必しも、最初からの必須條件ではないといへる。其が山越し像を通過すると、知恩院の阿彌陀二十五菩薩來迎像の樣な、寫實風な山から家へ降る迅雲の上に描かれる樣になるのである。
結局彌陀三尊圖に、山の端をかき添へ、下體を隱して居る點が、特殊なのである。謂はゞ一抹の山の端線あるが故に、簡素乍らの淨土變相圖としての條件を、持つて來る訣なのである。即、日本式の彌陀淨土變として、山越し像が成立したのである。こゝに傳説の上に語られた慧心僧都の巨大性が見られるのである。
山越し像についての傳へは、前に述べた叡山側の説は、山中不二峰において感得したものと言はれてゐるが、其に、疑念を持つことが出來る。
觀經曼陀羅の中にも、内外陣左邊右邊のとり扱ひについて、種々の相違はあるやうだが、定善義十三觀の中、最重く見られてゐるのが、日想觀である。海岸の樹下に合掌する韋提希夫人あり、婢女一人之に侍立し、
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