經驗は、曾て一度したことがあつた。姫は今其を思ひ起して居る。簡素と、豪奢との違ひこそあれ、驚きの歡喜は、印象深く殘つてゐる。
今の 太上天皇樣が、まだ宮廷の御あるじで居させられた頃、八歳《ハツサイ》の南家の郎女《イラツメ》は、童女《ワラハメ》として、初《ハツ》の殿上《テンジヨウ》をした。穆々《ボクヽヽ》たる宮の内の明りは、ほのかな香氣を含んで、流れて居た。晝すら眞夜《マヨ》に等しい、御帳臺《ミチヤウダイ》のあたりにも、尊いみ聲は、昭々《セウヽヽ》と珠を搖る如く響いた。物わきまへもない筈の、八歳の童女が感泣した。
「南家には、惜しい子が、女になつて生れたことよ」と仰せられた、と言ふ畏れ多い風聞が、暫らく貴族たちの間に、くり返された。其後十二年、南家の娘は、二十《ハタチ》になつてゐた。幼いからの聰《サト》さにかはりはなくて、玉・水精《スヰシヤウ》の美しさが益々加つて來たとの噂が、年一年と高まつて來る。
姫は、大門の閾《シキミ》を越えながら、童女殿上《ワラハメテンジヤウ》の昔の畏《カシコ》さを、追想して居たのである。長い甃道《イシキミチ》を踏んで、中門に屆く間にも、誰一人出あふ者がなかつた。
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