なのに、目が見えぬ。この耳すら、世間の語を聞き別けなくなつて居る。闇の中にばかり瞑《ツブ》つて居たおれの目よ。も一度くわつと※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《ミヒラ》いて、現し世のありのまゝをうつしてくれ、……土龍の目なと、おれに貸しをれ。
[#ここで字下げ終わり]
聲は再、寂かになつて行つた。獨り言する其聲は、彼の人の耳にばかり聞えて居るのであらう。
丑刻《ウシ》に、靜謐の頂上に達した現《ウツ》し世《ヨ》は、其が過ぎると共に、俄かに物音が起る。月の、空を行く音すら聞えさうだつた四方の山々の上に、まづ木の葉が音もなくうごき出した。次いではるかな谿のながれの色が、白々と見え出す。更に遠く、大和|國中《クニナカ》の、何處からか起る一番鷄のつくるとき[#「とき」に傍点]。
曉が來たのである。里々の男は、今、女の家の閨戸《ネヤド》から、ひそ/\と歸つて行くだらう。月は早く傾いたけれど、光りは深夜の色を保つてゐる。午前二時に朝の來る生活に、村びとも、宮びとも、忙しいとは思はずに、起きあがる。短い曉の目覺めの後、又、物に倚りかゝつて、新しい眠りを繼ぐのである。
山風は頻りに、吹きおろす。
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