も知らぬ身であつた」、と姫の心の底の聲が揚つた。さうして、その事毎に、挨拶をしてはやり過したい氣が、一ぱいであつた。今日も其續きを、くはしく見た。
なごり惜しく過ぎ行く現《ウツ》し世のさま/″\。郎女は、今目を閉ぢて、心に一つ/\收めこまうとして居る。ほのかに通り行き、將《ハタ》著しくはためき[#「はためき」に傍点]過ぎたもの――。宵闇の深くならぬ先に、廬《イホリ》のまはりは、すつかり手入れがせられて居た。燈臺も大きなのを、寺から借りて來て、煌々と、油|火《ビ》が燃えて居る。明王像も、女人のお出での場處には、すさまじいと言ふ者があつて、どこかへ搬んで行かれた。其よりも、郎女の爲には、帳臺の設備《シツラ》はれてゐる安らかさ。今宵は、夜も、暖かであつた。帷帳《トバリ》を周らした中は、ほの暗かつた。其でも、山の鬼神《モノ》、野の魍魎《モノ》を避ける爲の燈の渦が、ぼうと梁に張り渡した頂板《ツシイタ》に搖《ユラ》めいて居るのが、たのもしい氣を深めた。帳臺のまはりには、乳母や、若人が寢たらしい。其ももう、一時《ヒトヽキ》も前の事で、皆すや/\と寢息の音を立てゝ居る。姫の心は、今は輕かつた。
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