き物も絶えたやうに、虚しい空間の闇に、時間が立つて行つた。郎女の額《ヌカ》の上の天井の光りの暈《カサ》が、ほの/″\と白んで來る。明りの隈はあちこちに偏倚《カタヨ》つて、光りを竪にくぎつて行く。と見る間に、ぱつと明るくなる。そこに大きな花。蒼白い菫。その花びらが、幾つにも分けて見せる隈、佛の花の青蓮華《シヤウレンゲ》と言ふものであらうか。郎女の目には、何とも知れぬ淨らかな花が、車輪のやうに、宙にぱつと開いてゐる。仄暗い蕋の處に、むら/\と雲のやうに、動くものがある。黄金の蕋をふりわける。其は黄金の髮である。髮の中から匂ひ出た莊嚴な顏。閉ぢた目が、憂ひを持つて、見おろして居る。あゝ肩・胸・顯はな肌。――冷え/″\とした白い肌。をゝ おいとほしい。
郎女は、自身の聲に、目が覺めた。夢から續いて、口は尚夢のやうに、語を逐うて居た。
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おいとほしい。お寒からうに――。
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十六
山の躑躅の色は、樣々ある。一つ色のものだけが、一時に咲き出して、一時に萎《シボ》む。さうして、凡一月は、後から後から替つた色のが匂ひ出て、禿げた岩も、一冬のうら枯れをとり返さぬ柴木山も、若夏の青雲の下に、はでなかざしをつける。其間に、藤の短い花房が、白く又紫に垂れて、老い木の幹の高さを、せつなく、寂しく見せる。下草に交つて、馬醉木《アシビ》が雪のやうに咲いても、花めいた心を、誰に起させることもなしに、過ぎるのがあはれである。
もう此頃になると、山は厭はしいほど緑に埋れ、谷は深々と、繁りに隱されてしまふ。郭公《クワツコウ》は早く鳴き嗄らし、時鳥が替つて、日も夜も鳴く。
草の花が、どつと怒濤の寄せるやうに咲き出して、山全體が花原見たやうになつて行く。里の麥は刈り急がれ、田の原は一樣に青みわたつて、もうこんなに伸びたか、と驚くほどになる。家の庭苑《ソノ》にも、立ち替り咲き替つて、栽ゑ木、草花が、何處まで盛り續けるかと思はれる。だが其も一盛りで、坪はひそまり返つたやうな時が來る。池には葦が伸び、蒲が秀《ホ》き、藺《ヰ》が抽んでゝ來る。遲々として、併し忘れた頃に、俄かに伸《ノ》し上るやうに育つのは、蓮の葉であつた。
前年から今年にかけて、海の彼方の新羅の亡状が、目立つて棄て置かれぬものに見えて來た。太宰府からは、軍船を新造して新羅征伐の設けをせよ、と言ふ命のお降しを、度々都へ請うておこして居た。此忙しい時に、偶然流人太宰府員外帥として、難波に居た横佩家の豐成は、思ひがけぬ日々を送らねばならなかつた。
都の姫の事は、子古の口から聽いて知つたし、又、京・難波の間を往來する頻繁な公私の使ひに、文をことづてる事は易かつたけれども、どう處置してよいか、途方に昏れた。ちよつと見は何でもない事の樣で、實は重大な、家の大事である。其だけに、常の優柔不斷な心癖は、益々つのるばかりであつた。
寺々の知音に寄せて、當麻寺へ、よい樣に命じてくれる樣に、と書いてもやつた。又處置方について伺うた横佩墻内の家の長老《トネ》・刀自たちへは、ひたすら汝等の主の女郎を護つて居れ、と言ふやうな、抽象風なことを、答へて來たりした。
次の消息には、何かと具體した仰せつけがあるだらう、と待つて居る間に、日が立ち、月が過ぎて行くばかりである。其間にも、姫の失はれたと見える魂が、お身に戻るか、其だけの望みで、人々は、山村に止つて居た。物思ひに、屈託ばかりもして居ぬ若人たちは、もう池のほとりにおり立つて、伸びた蓮の莖を切り集め出した。其を見て居た寺の婢女《メヤツコ》が、其はまだ若い、まう半月もおかねばと言つて、寺領の一部に、蓮根《ハスネ》を取る爲に作つてあつた蓮田《ハチスダ》へ、案内しよう、と言ひ出した。
あて人の家自身が、それ/\、農村の大家《オホヤケ》であつた。其が次第に、官人《ツカサビト》らしい姿に更つて來ても、家庭の生活には、何時までたつても、何處か農家らしい樣子が、殘つて居た。家構へにも、屋敷の廣場《ニハ》にも、家の中の雜用具《ザフヨウグ》にも。第一、女たちの生活は、起居《タチヰ》ふるまひ[#「ふるまひ」に傍点]なり、服裝なりは、優雅に優雅にと變つては行つたが、やはり昔の農家の家内《ヤウチ》の匂ひがつき纒うて離れなかつた。刈り上げの秋になると、夫と離れて暮す年頃に達した夫人などは、よく其家の遠い田莊《タドコロ》へ行つて、數日を過して來るやうな習しも、絶えることなく、くり返されて居た。
だから、刀自たちは固より若人らも、つくねん[#「つくねん」に傍点]と女部屋の薄暗がりに、明し暮して居るのではなかつた。てんでに、自分の出た村方の手藝を覺えて居て、其を、仕へる君の爲に爲出《シイダ》さう、と出精してはたらいた。
裳の襞を作るのに珍《ナ》い術《テ》を持つ
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