戀人を思ふ心が、切々として來るのである。女たちは、かうした場合にも、平氣に近い感情で居られる長い暮しの習しに馴れて、何か、と爲事を考へてはして居る。女方の小屋は、男のとは別に、もつと廬に接して建てられて居た。
身狹乳母《ムサノチオモ》の思ひやりから、男たちの多くは、唯さへ小人數な奈良の御館《ミタチ》の番に行け、と言つて還され、長老《オトナ》一人の外は、唯|雜用《ザフヨウ》をする童と、奴隷《ヤツコ》位しか殘らなかつた。
乳母《オモ》や、若人たちも、薄々は帳臺の中で夜を久しく起きてゐる、郎女の樣子を感じ出して居た。でも、なぜさう夜深く溜め息ついたり、うなされたりするか、知る筈のない昔かたぎ[#「かたぎ」に傍点]の女たちである。
やはり、郎女の魂《タマ》があくがれ出て、心が空しくなつて居るもの、と單純に考へて居る。ある女は、魂ごひの爲に、山尋ねの咒術《オコナヒ》をして見たらどうだらう、と言つた。
乳母は一口に言ひ消した。姫樣、當麻に御安著なされた其夜、奈良の御館へ計はずに、私にした當麻眞人《タギマノマヒト》の家人たちの山尋ねが、わるい結果を呼んだのだ。當麻語部とか謂つた蠱物《マジモノ》使ひのやうな婆が、出しやばつての差配が、こんな事を惹き起したのだ。
その節、山の峠《タワ》の塚で起つた不思議は、噂になつて、この貴人《ウマビト》一家の者にも、知れ渡つて居た。あらぬ者の魂を呼び出して、郎女樣におつけ申しあげたに違ひない。もう/\、輕はずみな咒術《オコナヒ》は、思ひとまることにしよう。かうして、魂《タマ》の游離《アクガ》れ出た處の近くにさへ居れば、やがては、元のお身になり戻り遊されることだらう。こんな風に考へて、乳母は唯、氣長に氣ながに、と女たちを諭し/\した。
こんな事をして居る中に、早一月も過ぎて櫻の後、暫らく寂しかつた山に、躑躅が燃え立つた。足も行かれぬ崖の上や、巖の腹などに、一群々々《ヒトムラヽヽヽヽ》咲いて居るのが、奧山の春は今だ、となのつて居るやうである。
ある日は、山へ/\と、里の娘ばかりが上つて行くのを見た。凡數十人の若い女が、何處で宿つたのか、其次の日、てんでに赤い山の花を髮にかざして、降りて來た。廬の庭から見あげた若女房の一人が、山の躑躅林《ツヽジバヤシ》が練つて降るやうだ、と聲をあげた。
ぞよ/\と廬の前を通る時、皆頭をさげて行つた。其中の二三人が、つくねんとして暮す若人たちの慰みに呼び入れられて、板屋の端へ來た。當麻の田居も、今は苗代時である。やがては田植ゑをする。其時は、見に出やしやれ。こんな身でも、其時はずんと、をなごぶりが上るぞな、と笑ふ者もあつた。
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こゝの田居の中で、植ゑ初めの田は、腰折れ田と言うて、都までも聞えた物語りのある田ぢやげな。
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若人たちは、又例の蠱物姥《マヂモノウバ》の古語りであらう、とまぜ返す。ともあれ、かうして、山ごもりに上つた娘だけに、今年の田の早處女《サウトメ》が當ります。其しるしが此ぢや、と大事さうに、頭の躑躅に觸れて見せた。
もつと變つた話を聞かせぬかえと誘はれて、身分に高下はあつても、同じ若い同士のことゝて、色々な田舍咄をして行つた。其を後《ノチ》に乳母《オモ》たちが聽いて、氣にしたことがあつた。山ごもりして居ると、小屋の上の崖をどう/″\と踏みおりて來る者がある。ようべ、眞夜中のことである。一樣にうなされて、苦しい息をついてゐると、音はそのまゝ、眞下へ眞下へ、降つて行つた。がら/″\と、岩の崩《ク》える響。――ちようど其が、此廬堂の眞上の高處《タカ》に當つて居た。こんな處に道はない筈ぢやが、と今朝起きぬけに見ると、案の定《ヂヤウ》、赤岩の大崩崖《オホナギ》。ようべの音は、音ばかりで、ちつとも痕は殘つて居なかつた。
其で思ひ合せられるのは、此頃ちよく/\、子から丑の間に、里から見えるこのあたりの峰《ヲ》の上《ヘ》に、光り物がしたり、時ならぬ一時颪《イツトキオロシ》の凄い唸りが、聞えたりする。今までつひに[#「つひに」に傍点]聞かぬこと。里人は唯かう、恐れ謹しんで居る、とも言つた。
こんな話を殘して行つた里の娘たちも、苗代田の畔に、めい/\のかざしの躑躅花を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]して歸つた。其は晝のこと、田舍は田舍らしい閨の中に、今は寢ついたであらう。夜はひた更けに、更けて行く。
晝の恐れのなごりに、寢苦しがつて居た女たちも、おびえ疲れに寢入つてしまつた。頭上の崖で、寢鳥の鳴き聲がした。郎女は、まどろんだとも思はぬ目を、ふつと開いた。續いて今ひと響き、びし[#「びし」に傍点]としたのは、鳥などの、翼ぐるめ[#「ぐるめ」に傍点]ひき裂かれたらしい音である。だが其だけで、山は音どころか、生
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