の胸に來た。瞬間、憂欝な氣持ちがかぶさつて來て、前にゐる大師の顏を見るのが、氣の毒な樣に思はれる。
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案じるなよ。庭が行き屆き過ぎて居る、と思うてるのだらう。そんなことはないさ。庭はよくても、亡びた人ばかりはないさ。淡海公の御館はどうだ。どの筋でも引き繼がずに、今に荒してはあるが、あの立派さは。それ[#「それ」に傍点]あの山部の何とか言つた、地下《ヂゲ》の召《メ》し人《ビト》の歌よみが、おれの三十になつたばかりの頃、「昔見し舊《フル》き堤は、年深み…年深み、池の渚に、水草《ミクサ》生ひにけり」とよんだ位だが、其後[#「其後」に傍点]が、これ此樣に四流にも岐れて榮えてゐる。もつとあるぞ――。なに、庭などによるものぢやないは。
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恃《タノ》む所の深い此あて人は、庭の風景の、目立つた個處々々を指摘しながら、其據る所を、日本《ヤマト》・漢土《モロコシ》に渉つて説明した。
長い廊を、數人の童《ワラハ》が續いて來る。
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日ずかしです。お召しあがり下されませう。
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改つて、簡單な饗應の挨拶をした。まらうどに、早く酒を獻じなさい、と言つてゐる間に、美しい采女《ウネメ》が、盃を額より高く捧げて出た。
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をゝ、それだけ受けて頂けばよい。舞ひぶりを一つ、見て貰ひなさい。
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家持は何を考へても、先を越す敏感な主人に對して、唯虚心で居るより外はなかつた。
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うねめ[#「うねめ」に傍点]は、大伴の氏[#(ノ)]上へは、まだくださらぬのだつたね。藤原では、存知でもあらうが、先例が早くからあつて、淡海公が、近江の宮から頂戴した故事で、頂く習慣になつて居ります。
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時々、こんな畏まつたもの言ひもまじへる。兵部大輔は、自身の語づかひにも、初中終《シヨツチユウ》氣扱ひをせねばならなかつた。
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氏[#(ノ)]上もな、身が執《シフ》心で、兄公殿を太宰府へ追ひまくつて、後にすわらうとするのだ、と言ふ奴があるといの――。やつぱり「奴はやつこどち」ぢやの。さう思ふよ。時に女姪《メヒ》の姫だが――。
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さすがの聰明第一の大師も、酒の量は少かつた。其が、今日は幾分いけた、と見えて、話が循環して來た。家持は、一度はぐらかされた緒口《イトグチ》に、とりついた氣で、
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横佩|墻内《カキツ》の郎女《イラツメ》は、どうなるでせう。社・寺、それとも宮――。どちらへ向いても、神さびた一生。あつたら惜しいものでおありだ。
氣にするな。氣にするな。氣にしたとて、どう出來るものか。此は――もう、人間の手へは、戻らぬかも知れんぞ。
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末は、獨り言になつて居た。さうして、急に考へ深い目を凝した。池へ落した水音は、未《ヒツジ》がさがると、寒々と聞えて來る。
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早く、躑躅の照る時分になつてくれぬかなあ。一年中で、この庭の一番よい時が、待ちどほしいぞ。
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大師藤原[#(ノ)]惠美[#(ノ)]押勝朝臣の聲は、若々しい、純な欲望の外、何の響きもまじへて居なかつた。
十五
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つた つた つた。
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郎女は、一向《ヒタスラ》、あの音の歩み寄つて來る畏しい夜更けを、待つやうになつた。をとゝひよりは昨日、昨日よりは今日といふ風に、其跫音が間遠になつて行き、此頃はふつに[#「ふつに」に傍点]音せぬやうになつた。その氷の山に對うて居るやうな、骨の疼く戰慄の快感、其が失せて行くのを虞れるやうに、姫は夜毎、鷄のうたひ出すまでは、殆、祈る心で待ち續けて居る。
絶望のまゝ、幾晩も仰ぎ寢たきりで、目は晝よりも寤《サ》めて居た。其間に起る夜の間の現象には、一切心が留らなかつた。現にあれほど、郎女の心を有頂天に引き上げた頂板《ツシ》の面《オモテ》の光り輪にすら、明盲《アキジ》ひのやうに、注意は惹かれなくなつてゐる。こゝに來て、疾《ト》くに、七日は過ぎ、十日・半月になつた。山も、野も、春のけしきが整うて居た。野茨の花のやうだつた小櫻が散り過ぎて、其に次ぐ山櫻が、谷から峰かけて、斷續しながら咲いてゐるのも見える。麥原《ムギフ》は、驚くばかり伸び、里人の野爲事に出た姿が、終日、そのあたりに動いてゐる。
都から來た人たちの中、何時までこの山陰に、春を起き臥すことか、と佗びる者が殖えて行つた。廬堂の近くに掘り立てた板屋に、かう長びくと思はなかつたし、まだどれだけ續くかも知れぬ此生活に、家ある者は、妻子に會ふことばかりを考へた。親に養はれる者は、家の父母の外にも、隱れた
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