も知らぬ身であつた」、と姫の心の底の聲が揚つた。さうして、その事毎に、挨拶をしてはやり過したい氣が、一ぱいであつた。今日も其續きを、くはしく見た。
なごり惜しく過ぎ行く現《ウツ》し世のさま/″\。郎女は、今目を閉ぢて、心に一つ/\收めこまうとして居る。ほのかに通り行き、將《ハタ》著しくはためき[#「はためき」に傍点]過ぎたもの――。宵闇の深くならぬ先に、廬《イホリ》のまはりは、すつかり手入れがせられて居た。燈臺も大きなのを、寺から借りて來て、煌々と、油|火《ビ》が燃えて居る。明王像も、女人のお出での場處には、すさまじいと言ふ者があつて、どこかへ搬んで行かれた。其よりも、郎女の爲には、帳臺の設備《シツラ》はれてゐる安らかさ。今宵は、夜も、暖かであつた。帷帳《トバリ》を周らした中は、ほの暗かつた。其でも、山の鬼神《モノ》、野の魍魎《モノ》を避ける爲の燈の渦が、ぼうと梁に張り渡した頂板《ツシイタ》に搖《ユラ》めいて居るのが、たのもしい氣を深めた。帳臺のまはりには、乳母や、若人が寢たらしい。其ももう、一時《ヒトヽキ》も前の事で、皆すや/\と寢息の音を立てゝ居る。姫の心は、今は輕かつた。
たとへば、俤に見たお人には逢はずとも、その俤を見た山の麓に來て、かう安らかに身を横へて居る。
燈臺の明りは、郎女の額の上に、高く朧ろに見える光の輪を作つて居た。月のやうに圓くて、幾つも上へ/\と、月輪《グワチリン》の重つてゐる如くも見えた。其が、隙間風の爲であらう。時々薄れて行くと、一つの月になつた。ぽうつと明り立つと、幾重にも隈の疊まつた、大きな圓かな光明になる。
幸福に充ちて、忘れて居た姫の耳に、今宵も谷の響きが聞え出した。更けた夜空には、今頃やつと、遲い月が出たことであらう。
物の音。――つた つたと來て、ふうと佇《タ》ち止るけはひ。耳をすますと、元の寂かな夜に――激《タギ》ち降《クダ》る谷のとよみ。
[#ここから1字下げ]
つた つた つた。
[#ここで字下げ終わり]
又、ひたと止《ヤ》む。
この狹い廬の中を、何時まで歩く、跫音だらう。
[#ここから1字下げ]
つた。
[#ここで字下げ終わり]
郎女は刹那、思ひ出して帳臺の中で、身を固くした。次にわぢ/\[#「わぢ/\」に傍点]と戰《ヲノヽ》きが出て來た。
[#ここから1字下げ]
天若御子《アメワカミコ》――。
[#ここで字下げ終わり
前へ
次へ
全80ページ中53ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
釈 迢空 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング