どかな春の日に戻つた。悠々《ウラヽヽ》と照り暮す山々を見せませう、と乳母が言ひ出した。木立ち山陰から盜み見する者のないやうに、家人《ケニン》らを、一町・二町先まで見張りに出して、郎女を、外に誘ひ出した。
暴風雨《アラシ》の夜、添下《ソフノシモ》・廣瀬・葛城の野山を、かち[#「かち」に傍点]あるきした娘御ではなかつた。乳母と今一人、若人の肩に手を置きながら、歩み出た。
日の光りは、霞みもせず、陽炎も立たず、唯をどんで見えた。昨日眺めた野も、斜になつた日を受けて、物の影が細長く靡いて居た。青垣の樣にとりまく山々も、愈々遠く裾を曳いて見えた。
早い菫―げんげ―が、もうちらほら咲いてゐる。遠く見ると、その赤々とした紫が一續きに見えて、夕燒け雲がおりて居るやうに思はれる。足もとに一本、おなじ花の咲いてゐるのを見つけた郎女は、膝を叢について、ぢつと眺め入つた。
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これはえ――。
すみれ、と申すとのことで御座ります。
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かう言ふ風に、物を知らせるのが、あて人に仕へる人たちの、爲來りになつて居た。
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蓮《ハチス》の花に似てゐながら、もつと細《コマ》やかな、――繪にある佛の花を見るやうな――。
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ひとり言しながら、ぢつと見てゐるうちに、花は、廣い萼《ウテナ》の上に乘つた佛の前の大きな花になつて來る。其がまた、ふつと、目の前のさゝやかな花に戻る。
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夕風が冷《ヒヤ》ついて參ります。内へと遊ばされ。
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乳母が言つた。見渡す山は、皆影濃くあざやかに見えて來た。
近々と、谷を隔てゝ、端山の林や、崖《ナギ》の幾重も重つた上に、二上《フタカミ》の男嶽《ヲノカミ》の頂が、赤い日に染つて立つてゐる。
今日は、又あまりに靜かな夕《ユフベ》である。山ものどかに、夕雲の中に這入つて行かうとしてゐる。
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まうし/\。もう外に居る時では御座りません。
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十三
「朝目よく」うるはしい兆《シルシ》を見た昨日は、郎女にとつて、知らぬ經驗を、後から後から展いて行つたことであつた。たゞ人《ヒト》の考へから言へば、苦しい現實のひき續きではあつたのだが、姫にとつては、心驚く事ばかりであつた。一つ/\變つた事に逢ふ度に、「何
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