真夏の夢
ストリンドベルヒ August Strindberg
有島武郎訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)鳩《はと》が森のおくから

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その時一|羽《わ》の

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「饌」の「しょくへん」に代えて「金」、第4水準2−91−37]《かきがね》を
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 北の国も真夏のころは花よめのようなよそおいをこらして、大地は喜びに満ち、小川は走り、牧場の花はまっすぐに延び、小鳥は歌いさえずります。その時一|羽《わ》の鳩《はと》が森のおくから飛んで来て、寝《ね》ついたなりで日をくらす九十に余るおばあさんの家の窓《まど》近く羽を休めました。
 物の二十年も臥《ふ》せったなりのこのおばあさんは、二人《ふたり》のむすこが耕すささやかな畑地《はたち》のほかに、窓越《まどご》しに見るものはありませなんだが、おばあさんの窓のガラスは、にじのようなさまざまな色のをはめてあったから、そこからのぞく人間も世間も、普通のものとは異なっていました。まくらの上でちょっと頭さえ動かせば、目に見える景色《けしき》が赤、黄、緑、青、鳩羽《はとば》というように変わりました。冬になって木々のこずえが、銀色の葉でも連ねたように霜《しも》で包まれますと、おばあさんはまくらの上で、ちょっと身動きしたばかりでそれを緑にしました。実際は灰色《はいいろ》でも野は緑に空は蒼《あお》く、世の中はもう夏のとおりでした。おばあさんはこんなふうで、魔術《まじゅつ》でも使える気でいるとたいくつをしませんでした。そればかりではありません。この窓ガラスにはもう一つ変わった所があって、ガラスのきざみ具合で見るものを大きくも小さくもする事ができるようになっておりました。だからもし大きなむすこが腹《はら》をたてて帰って来て、庭先でどなりでもするような事があると、おばあさんは以前のような、小さい、言う事をきく子どもにしようと思っただけで、即座《そくざ》にちっぽけに見る事もできましたし、孫たちがよちよち歩きで庭に出て来るのを見るにつけ、そのおい先を考えると、ワン、ツー、スリー、拡大のガラスからのぞきさえすれば、見るまに背《せ》の高い、育ち上がったみごとな大男になってしまいました。
 こんなおもしろい窓ではありますが、夏が来るとおばあさんはその窓をあけ放させました。いかな窓でも夏の景色ほどな景色は見せてくれませんから。さて夏の中でもすぐれた美しい聖ヨハネ祭に、そのおばあさんが畑と牧場とを見わたしていますと、ひょっくり鳩が歌い始めました。声も美しくエス・キリスト、さては天国の歓喜をほめたたえて、重荷に苦しむものや、浮き世のつらさの限りをなめたものは、残らず来いとよび立てました。
 おばあさんはそれを聞きましたが、その日はこの世も天国ほどに美しくって、これ以上のものをほしいとも思いませんでしたから、礼を言って断《こと》わってしまいました。
 で鳩は今度は牧場を飛《と》び越《こ》して、ある百姓《ひゃくしょう》がしきりと井戸を掘っている山の中の森に来ました。その百姓は深い所にはいって、頭の上に六|尺《しゃく》も土のある様子《ようす》はまるで墓のあなの底にでもいるようでした。
 あなの中にいて、大空も海も牧場も見ないこんな人こそは、きっと天国に行きたいにちがいないと思いましたから、鳩は木の枝《えだ》の上で天国の歓喜を鳩らしく歌い始めました。
 ところが百姓は、
「いやです。私はまず井戸を掘らんければなりません。でないと夏分のお客さんは水にこまるし、あのかわいそうな奥《おく》さんと子ども衆もいなくなってしまいますからね」
 と言いました。
 で鳩は今度は海岸に飛んで行きました。そこではさきほどの百姓の兄弟にあたる人が引《ひ》き網《あみ》をしていました。鳩は蘆《あし》の中にとまって歌いました。
 その男も言いますには、
「いやです。私は何より先に家で食うだけのものを作らねばなりません。でないと子どもらがひもじいって泣《な》きます。あとの事、あとの事。まだ天国の事なんか考えずともよろしい。死ぬ前には生きるという事があるんだから」
 で鳩はまた百姓の言ったかわいそうな奥さんが夏を過ごしている、大きないなかの住宅にとんで行きました。その時奥さんは縁側《えんがわ》に出て手ミシンで縫物《ぬいもの》をしていました。顔は百合《ゆり》の花のような血の気のない顔、頭の毛は喪《も》のベールのような黒い髪《かみ》、しかして罌粟《けし》のような赤い毛の帽子《ぼうし》をかぶっていました。奥さんは聖ヨハネの祭日にむすめに着せようとして、美しい前掛《まえか》けを縫っていました。むすめはお母さんの足もとの床《ゆか》の上にすわって、布切れの端《はし》を切りこまざいて遊んでいました。
「なぜパパは帰っていらっしゃらないの」
 とその小さい子がたずねます。
 これこそはそのわかいおかあさんにはいちばんつらい問いであるので、答えることができませんかった。おとうさんはおかあさんよりもっと深い悲しみを持って、今は遠い外国に行っているのでした。
 ミシンはすこし損じてはいますが、それでも縫い進みました。――人の心臓《しんぞう》であったら出血のために動かなくなってしまうほどたくさん針《はり》が布をさし通して、一縫いごとに糸をしめてゆきます――不思議な。
「ママ今日《きょう》私は村に行って太陽が見たい、ここは暗いんですもの」
 とその小さな子が申しました。
「昼過ぎになったら、太陽を拝みにつれて行ってあげますからね」
 そう言えばここは、この島の海岸の高いがけの間にあって暗い所でした。おまけに住宅は松《まつ》の木陰《こかげ》になっていて、海さえ見えぬほどふさがっていました。
「それからたくさんおもちゃを買ってちょうだいなママ」
「でもたくさん買うだけのお金がないんですもの」
 とおかあさんは言いながらひときわあわれにうなだれました。昔《むかし》は有り余った財産も今はなけなしになっているのです。
 でも子どもが情けなさそうな顔つきになると、おかあさんはその子をひざに抱《だ》き上《あ》げました。
「さあ私の頸《くび》をお抱き」
 子どもはそのとおりにしました。
「ママをキスしてちょうだい」
 しかして小鳥のように半分開いたこの子の口からキスを一つもらいました。しかしてヒヤシンスのように青いこの子の目で見やられると、母の美しい顔は、子どもと同じな心置きのない無邪気《むじゃき》さに返って、まるで太陽の下に置かれた幼児《ようじ》のように見えました。
「ここで私は天国の事などは歌うまい。しかしできるなら何かこの二人《ふたり》の役にたちたいものだ」
 と鳩は思いました。
 しかして鳩は、この奥さんがこれから用足しに行く「日の村」へと飛んで行きました。
 そのうちに午後になりましたから、このかわいい奥さんは腕《うで》に手かごをかけて、子どもの手を引いて出かける用意をしました。奥さんはまだ一度もその村に行った事はありませんが、島の向こう側で日の落ちる方にあるという事は知っていました。またそこに行く途中には柵《さく》で囲まれた六つの農場と、六つの門とがあるという事を、百姓から聞かされていました。
 でいよいよ出かけました。
 やがて二人は石ころや木株のある険しい坂道《さかみち》にかかりましたので、おかあさんは子どもを抱きましたが、なかなか重い事でした。
 この子どもの左足はたいへん弱くって、うっかりすると曲がってしまいそうだから、ひどく使わぬようにしなければならぬと、お医者の言った事があるのでした。
 わかいおかあさんはこの大事な重荷のために息を切って、森の中は暑いものだから、汗《あせ》の玉が顔から流れ下りました。
「のどがかわきました、ママ」
 とおさないむすめは泣きつくのでした。
「いい子だからこらえられるだけこらえてごらんなさい。あちらに着きさえすれば水をあげますからね」
 とおかあさんは言いながら、赤《あか》ん坊《ぼう》のようなかわいたその子の口をすうてやりますと、子どもはかわきもわすれてほおえみました。
 でも日は照り切って、森の中の空気はそよともしません。
「さあおりてすこし歩いてみるんですよ」
 と言いながらおかあさんはむすめをおろしました。
「もうくたびれてしまったんですもの」
 子どもは泣《な》く泣くすわりこんでしまいます。
 ところでそこにきれいなきれいな赤|薔薇《ばら》の色をした小さい花がさいて巴旦杏《はたんきょう》のようなにおいをさせていました。子どもはこれまでそんな小さな花を見た事がなかったものですから、またにこにことほおえみましたので、それに力を得て、おかあさんは子どもを抱き上げて、さらに行く手を急ぎました。
 そのうちに第一の門に来ました。二人はそこを通って跡《あと》に※[#「饌」の「しょくへん」に代えて「金」、第4水準2−91−37]《かきがね》をかけておきました。
 するとどこかで馬のいななくような声が聞こえたと思うと、放れ馬が行く手に走り出て道のまん中にたちふさがって鳴きました。その鳴き声に応ずる声がまた森の四方にひびきわたって、大地はゆるぎ、枝はふるい、石は飛びました。しかして途方にくれた母子二人は二十|匹《ぴき》にも余る野馬の群れに囲まれてしまいました。
 子どもは顔をおかあさんの胸《むね》にうずめて、心配で胸の動悸《どうき》は小時計《しょうどけい》のようにうちました。
「私こわい」
 と小さな声で言います。
「天に在《ま》します神様――お助けください」
 とおかあさんはいのりました。
 と黒鳥の歌が松の木の間で聞こえるとともに馬どもはてんでんばらばらにどこかに行ってしまって、四囲《あたり》は元の静けさにかえりました。
 そこで二人は第二の門を通ってまた※[#「饌」の「しょくへん」に代えて「金」、第4水準2−91−37]《かきがね》をかけました。
 その先には作物を作らずに休ませておく畑があって、森の中よりもずっと熱い日がさしていました。灰色《はいいろ》の土塊《どかい》が長く幾畦《いくあぜ》にもなっているかと思うと、急にそれが動きだしたので、よく見ると羊《ひつじ》の群れの背《せ》が見えていたのでした。
 羊、その中にも小羊はおとなしいけものですが、雄羊《おひつじ》はいじめもしないのにむやみに人にかかるいたずらをするやつで、うっかりはしていられません。ところがその雄羊が一|匹《ぴき》小溝《こみぞ》を飛《と》び越《こ》えて道のまん中にやって来ました。しかして頭を下げたなりであとしざりをします。
「私こわいママ」
 と胸をどきつかせながらむすめが申します。
「めぐみ深い在天の神様、私どもをお助けください」
 と言って天の一方を見上げながらおかあさんがいのりますと、そこに蝶《ちょう》のような羽ばたきをさせながら、小さな雲雀《ひばり》がおりていました。そしてそれが歌をうたいますと、雄羊は例の灰色の土塊の中にすがたをかくしてしまいました。
 そこで今度は第三の門に来ましたが、ここはじゅくじゅくの湿地《しっち》ですから、うっかりすると足が滅入《めい》りこみます。所々の草むらは綿の木の白い花でかざった壁のようにも思われます。なにしろどろの中に落ちこまないようにまっすぐに歩かなければなりませんでした。おまけにここには、子どもたちがうっかりすると取ってしかられる、毒のある黒木いちごがはえていました。むすめは情けなさそうにそれを見ました。まだこの子は毒とはなんのことだか知りませんでしたから。
 なお歩いて行きますと、木の間から何か白いものがやって来るのに気がつきました。見るうちに太陽はかくれて、白霧《はくむ》が四囲《あたり》を取りまきました。いかにも気味がよくありません。
 するうちにその霧《きり》の中から、ねじ曲がった二本の角《つの》のある頭が出て、それがほえると、続
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