、まるであなたそっくりでしたわ。だけど、もう行きましょう、行きましょう。アレクセイさん、あなた大急ぎであの頼まれたところへいらっしゃい、そしてすぐ帰ってらっしゃい。リーズ、何か用はなくって? 後生だから、一分間でもアレクセイさんを引き留めないでおくれ、すぐにおまえのところへ帰っていらっしゃるんだから」
 ホフラーコワ夫人はやっとのことで、駆け出した。アリョーシャは出て行く前に、リーズの部屋の戸をあけようとした。
「どんなことがあってもだめよ!」とリーズは叫んだ、「今はもう、どんなことがあってもだめよ! そのまま、戸の向こうからお話しなさい。あなたはどうして天使のお仲間入りをしたの! わたしそれ一つだけは、聞かしていただきたいの」
「ひどくばかげたことをしでかしたからですよ! リーズさん、さようなら!」
「あなたはよくまあ、そんな帰り方ができますわね」とリーズは叫んだ。
「リーズさん、僕にはほんとに悲しいことがあるんです! すぐ帰って来ますが、僕には、とても悲しい悲しいことがあるんです!」と言って、彼は部屋を駆け出して行った。

   六 小屋における破裂

 事実、彼にはいまだかつて、めったに経験したこともないような、なみなみならぬ悲しみがあった。彼は出しゃばって、『愚かなことをしでかした』のだ、――しかも、どんな世話を焼いたのか? 愛に関したことではないのか? 『いったいあんなことについて、自分に何かわかるのか、この事件について、何が僕に解釈がつくのか?』彼は顔を赤らめながら、心の中で百度もくり返すのであった、『ああ、恥ずかしいくらいはなんでもないんだ、それは僕にとって当然の罰だ。――やっかいなのは、僕が必ず新しい不幸を生む元になるということだ、――長老様が僕をお寄こしなすったのは、みんなを仲なおりさせていっしょにするためだった。ところで、ところで、こんな一致のしかたでいいものか?』ここで、彼は急にまた『二人の手を結び合わす』と言ったことを思い出して、またもや恥ずかしくなってきた。『僕は全く誠意をもってしたんだけれど、これから先はもっと利口になることだ』と彼は不意に決心したが、その決心に対しては微笑だもしなかった。
 カテリーナの頼みは湖水通りとのことであったが、ちょうど兄のドミトリイはその道筋の、湖水通りから遠くない横丁に暮らしていた。アリョーシャはとにもかくにも、二等大尉のところへ行く前に必ず兄の家へ寄ってみようと決心したが、しかも、きっと兄は留守だろうという予感もしていたのだ。兄は今、ことさらに自分を避けて、身を隠すかもしれないという懸念さえも起こったが、どんなことがあろうとも、是が非でも、捜し出さなければならなくなったのである。時は過ぎて行った。それに修道院を出たときから、瀕死《ひんし》の長老を思うの念は一分間も、一秒間も、彼の念頭を去らなかったのである。
 カテリーナの頼みについて、ただ一つかなりに彼の興味をそそることがあった。二等大尉の息子の小さな小学生が、声をあげて泣きながら、父のそばを駆け回ったという話をカテリーナから聞かされたとき、ふっと、アリョーシャの胸に、ある考えがちらついたのだ、それは、さっき、『いったい、僕がどんな悪いことをしたっていうの?』と問い詰めたとき、自分の指へかみついた小学生が、その二等大尉の子供ではあるまいか? という疑いであった。ところが、今アリョーシャは、なぜということもなしに、ほとんどそれに違いないと思いこんでいた。かくのごとくして、本筋に関係のない想像をしているうちに、気が晴れてきたので、彼はたった今自分のしでかした『不始末』ばかり気にして、後悔の念に自分で自分を苦しめるようなことはよして、ただなすべきことだけをすればよいのだ、どんなにしても、どうせ成るようにしかならないのだ、と肚《はら》を決めた。覚悟が決まると、彼はすっかり元気づいた。さて、兄ドミトリイの家をさして、横町へ曲がったとき、彼は空腹を感じたので、さきほど、父の所からとって来たフランスパンを、かくしから取り出して歩きながら食べた。これでやっと元気が出てきた。
 ドミトリイは留守であった。家の人たち――指物師《さしものし》の老夫婦とその息子は、いぶかしげにじろじろとアリョーシャを見まわした。『もう今日で三日も家へはお帰りになりません。ひょっとしたら、どこかへ行っておしまいになったのかもしれませんよ』老人はアリョーシャの根強い質問に対して答えるのであった。アリョーシャは老人が前から言い含められて、こんな返事をするのだと見てとった。『じゃ、グルーシェンカのところにいるんじゃないでしょうか、またフォーマのところにかくれてるんじゃありませんか?』と聞かれたとき(アリョーシャはわざと、ざっくばらんな風を見せた)、家の人たちは心配そうな様子をして、彼の顔を見つめた。『してみると、兄さんを好いて、味方になっているんだ』とアリョーシャは考えた、『それはまあ、結構なことだ』
 ついに彼は湖水通りにあるカルムィコワの家を見つけた。一方に傾いた古い小さな家で、窓は往来へ向いてたった三つしかなかった。泥だらけの中庭があって、そのまん中に、牝牛が一匹、ぽっつり寂しそうに立っていた。中庭からの入り口は玄関に通じていた。玄関の左側には女主人と娘が暮らしていたが、娘といっても、もうお婆さんで、しかも二人とも聾《つんぼ》らしかった。彼が二等大尉のことを幾度も幾度もくり返して尋ねたとき、一人のほうがやっと下宿人のことを尋ねているのだなと悟って、まるで物置小屋のようなものの戸口を、玄関ごしに指さして見せた。全く二等大尉の住まいはなんのことはない、純然たる物置小屋であった。アリョーシャは鉄のハンドルに手をかけて、戸をあけようとしたが、ふっと、戸の向こうが妙にひっそりしているのに気がついた。彼はカテリーナのことばによって、二等大尉に家族があるということを知ってたので、『みんなそろって寝ているのかしら、それとも僕の来たことを聞きつけて、戸のあくのを待っているのかしら。しかし、まあ、ドアをたたいてみたほうがいいだろう』と考えて、彼は戸をたたいた。すると、返事の声が聞こえたが、それもすぐではなしに、十秒くらいたったろうかと思われるころであった。
「いったい誰?」と腹立たしそうな大声で誰かがどなった。
 で、アリョーシャはドアをあけて閾《しきい》をまたいだ。彼のはいった小屋はかなりに広かったが、ごたごたした道具や家族の人たちで、足の踏み場もないくらいであった。左手には大きなロシア風の暖炉《だんろ》があった。暖炉から左側の窓にかけて、部屋いっぱいに繩《なわ》が渡されて、色とりどりなぼろが下がっていた。両側の壁のそばには、右にも左にも、寝台が、一つずつ据えてあって、編み物の夜着がかかっていた。左側の寝台には、大きいのから順々に、更紗《サラサ》の枕が四つ並べられて、小山のように積み重なっている。右側のもう一つの寝台には非常に小さな枕が、たった一つ見えるだけであった。それから手前のほうの片隅には、はすかいに繩を引いた上にカーテンとも敷布ともつかないものをつるして、少しばかり仕切りをしたところがあった。この仕切りの向こうにもベッドがあったが、これはベンチと椅子をつなぎ合わして仕立てたものであった。まん中の窓のそばにある、飾り気のない、不細工な、木造りの四角のテーブルは、その片隅から移されたものらしかった。かびの生えたような青い小さなガラスを四枚張った小さな窓は、三つとも、いずれもどんよりと曇ったうえに、ぴったり閉めきってあるので、部屋の中はかなり息苦しく、それほど明るくはなかった。テーブルの上には食べ残された卵子の目玉焼きのはいっている焼き鍋や、食いさしのパンや、底のほうにほんのちょっぴり残っている地上の幸福[#「地上の幸福」に傍点](ウォトカ)の小びんなどが載っていた。
 左側の寝台に近い椅子には、更紗《サラサ》の着物を着た品のいい女が坐っていた。顔はひどく痩せていて黄色く、いちじるしく落ちこんだ頬は、一目見ただけでもその女が病気だということを表わしていた。しかし、何よりもアリョーシャの心を打ったのは、このあわれな婦人のまなざしであった。ひどく物問いたげな、しかも、それと同時に、おそろしく高慢なまなざしであった。婦人はまだ口を出さずに、主人公がアリョーシャと話し合っている間じゅう、大きな鳶色《とびいろ》の眼を高慢らしく、物問いたげに動かしながら、話し合っている二人を見比べるのであった。左の窓側の婦人のわきには赤い巻き毛の、かなりに器量の悪い、若い娘が立っていた。身なりは粗末ながら、小ざっぱりしていた。彼女はアリョーシャのはいって来るのを、気むずかしげに眺めた。右側には同じく寝台のそばに、もう一人の女性が腰をかけていた。やはり二十歳ばかりの若い娘ではあったが、見るもあわれな佝僂《せむし》で、あとでアリョーシャの聞いたところによると、両足が萎《な》えてしまった躄《いざり》だとのことであった。この娘の松葉杖は一方の隅の寝台と壁のあいだに立てかけてあった。ひときわ美しく、気立てのよさそうな眼はなんとなく落ち着いた、つつましい表情を浮かべながら、じっとアリョーシャを見つめていた。テーブルの向こうには四十五ばかりの男が坐っていて、玉子焼きをたいらげているところであった。あまり背が高くなく、痩せこけて、弱々しげな体格をして、髪の毛も赤く、まばらな顎鬚《あごひげ》も赤みがかかっていたが、この鬚はささくれ立った垢《あか》すりの糸瓜《へちま》にそっくりであった。(この比喩《ひゆ》――ことに『糸瓜』ということばが、なんということもなしに、一目見るなり、アリョーシャの心にちらついて、彼はこれを後になって思い出した)部屋の中に誰もほかに男のいないところから察するに、この男が戸の中から『いったい、誰?』と叫んだものらしかった。しかし、アリョーシャがはいったとき、彼は今まで腰かけていたベンチから、いきなり飛びあがって、穴だらけのナプキンであわてて口のあたりを拭きながら、アリョーシャのほうへ飛んで来た。
「お坊さんがお寺からお布施をもらいに来たんだわ、選《よ》りに選《よ》ってこんなところへ!」左の隅に立っていた娘が、大きな声で言った。すると、アリョーシャのそばへ飛んで来た男は、いきなり、ぐるりと踵《かかと》で、娘のほうへ身をかわして、興奮して、妙にちぎれちぎれな調子で答えた。
「そうじゃないよ、ワルワーラさん、それはあなたの勘違いですよ! ところで、私のほうからも、お伺いしますが」彼は再びアリョーシャのほうをひょいと振り向いた、「どういうわけであなたはお越しなすったんでございますか、……この内まで?」
 アリョーシャはしげしげと相手を眺めた。はじめて彼はこの男を見たのであった。この男は、なんとなく角ばっていて、せかせかして、いらだたしそうであった。たった今、飲んだということははっきりしているが、けっして酔っ払ってはいなかった。その顔は何かしら、非常に高慢な様子と、それと同時に、――奇妙なことであるが、――いかにも臆病らしい色を浮かべていた。長いこと忍んで仕えていた人が、急に奮然と立って気骨を示そうとしている人のようなところがあった。もっと適切にいうと、相手をなぐりつけたくてたまらないのに、相手の者からなぐりつけられはしまいかと、極度に恐れている人のようであった。彼のことばにも、かなり鋭い声の調子にも、何かしらキ印《じるし》らしいユーモアがあって、意地悪そうになったり、ときには待ちきれないで、びくびくしているように、しどろもどろになったりした。『この内』のことで質問を放ったとき、彼は全身を震わせながら、眼を回してアリョーシャのほうへぴったり食いつくように飛びついたので、こちらは思わず機械的に、一歩あとへ引きさがったくらいであった。
 彼は非常に粗末な、南京木綿《ナンキンもめん》か何かの地味な服を着ていたが、それはつぎはぎだらけで、しみがいっぱいついていた。ズボンはすっかり流行おくれの、思いき
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