け顔を出すようなことはできない』彼の幼少のころの記憶の中に、よく母に抱かれて弥撒に詣った、この町の郊外の修道院に関する何ものかが残っていたのかもしれない。あるいはまた『憑かれた女』なる母が、彼を両手に載せて差し出した聖像の前の斜陽が、彼の心に何か作用を及ぼしたのかもしれない。彼が物思いに沈みながら、当時この町へ帰ってきたのは、ここでは『すべて』であるか、それともただの『二ルーブル』であるかを見きわめるためだったかもしれない。が――この修道院で彼は長老に会ったのである……それは前にも述べたように、ゾシマ長老のことである。ここでひと言わが国の修道院における長老とはいかなる者であるかについて説明を加えなければならぬが、残念ながら自分はこの道にかけては、たいして資格もなければ、確かな心得もないような気がする。しかし、ちょっと手短に、表面的な叙述を試みようと思う。まず第一に、権威ある専門家の説によると、長老とか長老制度とかが、わがロシアの修道院に現われたのはきわめて最近のことで、まだ百年にもなっていないが、東方の諸正教国、ことにシナイとアトスには千年も前からあったとのことである。なお彼らの主張に
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