おる)、憎悪ばかりでなくおのが同胞たる犯人の将来の運命に関する極度の無関心と忘却が伴うのじゃ。こういうありさまで、一事が万事教会側のいささかの憐愍《れんびん》もなしに取り行なわれる。それというのも多くの場合、外国には教会というものが全然なくなって、職業的な牧師と、壮麗な会堂の建物が残っておるにすぎぬからじゃ。教会そのものはとうの昔に、教会という下級の形から、国家という上級の形へ移るのにきゅうきゅうたるありさまで、やがては国家というものの中へ、すっかり姿を没してしまおうとしておるのじゃ。少なくともルーテル派の国々では、そのように思われる。ローマに至っては、もう千年このかた、教会に代わって国家が高唱されておる。それゆえ、犯人自身も教会の一員という自覚がないので、追放に処せられると絶望のどん底に投げこまれてしまうのじゃ。たとえ社会へ復帰することがあっても、しばしば非常な憎悪をいだいて帰るため、社会そのものが自分で自分を追放するようなことになってしまうのじゃ。これがどういう結果に終わるかは、御自身で御判断がつきましょう。わが国においても、だいたいこれと同じありさまのように思われなくもないのじゃ
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