しったら! おまえはけっして一人ぼっちじゃないよ。みんなおまえを好いているんだよ、みんなおまえを尊敬しているよ」と彼はまた妻の両手に接吻しながら、両の掌《てのひら》でその顔を優しくなで始めた。それから、ナプキンを取るなり、顔の涙を拭いてやった。アリョーシャには彼自身の眼にも涙がひらめいたように感ぜられた。
「さあ、あなた、御覧になったでしょう? お聞きになったでしょう?」彼はだしぬけに哀れな低能を指さしながら、いたけだかになって、アリョーシャのほうを振り向いた。
「ええ、よくわかりました」こちらはへどもどしながらこうつぶやいた。
「父ちゃん、父ちゃん! いったい父ちゃんはその人と……そんなやつうっちゃっておおきよ、ねえ、父ちゃん!」不意に床の上に起きなおって、燃えるような眼で父親を見つめながら、少年は叫んだ。
「もう、たくさんだわ、そんな道化たまねをして、ばかげた芸をしてみせるのは、もういいかげんにしたらいいじゃありませんか。そんなことはなんの役にも立つじゃあるまいしよ……」
ワルワーラは、もうすっかり癇癪を起こしてしまって、やはり同じ片隅から、どなりつけた。彼女は床まで鳴らすのであった。
「全くもっともな話だ、なあワルワーラさん、今度こそはおまえさんが憤慨なさるのも無理のない話だ。だから、わたくしもおまえさんの言うことを聞きましょう。さあ、お帽子をかぶりなさい、わたくしも、このシャッポをかぶりますから、いっしょに出かけましょう。あなたにひとことまじめに申し上げたいことがございますが、まあ、この部屋を出てからにいたしましょう。その、そこに坐っている娘は、わたくしの娘で、ニイナ・ニコライヴナと申しますんでございますよ。紹介するのを忘れておりましたが。――これは生き身の天使でございますよ……人間の世界へ天降《あまくだ》りましたんで、……でも、おわかりになりますかしら……」
「ほら、あんなに体じゅう震わせて、まるで痙攣《けいれん》でも起こしているようだわ」とワルワーラは腹立たしげにことばを続けた。
「ところで、いまじたんだを踏みながら、わたくしのことを道化と言った娘も、やはり生き身の天使なんでございまして、わたくしのことを道化呼ばわりしたのも、もっとも至極なんでございますよ。さあ、カラマゾフさん、おともいたしましょうかな、切りをつけなければなりませんので……」
こういって、アリョーシャの手を取って、部屋からいきなり、通りへ引っ張り出した。
七 清らかなる外気のうちに
「空気が澄んでおりますな。わたしのお屋敷の中は、実際、いろんな意味で申しましても、あんまりせいせいしておりませんで。まあ、ゆっくり、まいりましょう。わたくしはおもしろいことをお聞かせしたいと思いましてな」
「実は僕も、たいへんな問題があるんですけれど……」とアリョーシャが言った、「さて、どういう風に切り出していいか迷っているんです」
「あなたがわたくしに用件のあることを、知らずにいるはずはございません。用がなかったら、けっして、わたくしのところなぞ、のぞいて御覧になることもなかったはずですからね。それとも実際に、子供のことを言いつけにいらっしただけなんでございましょうか? それはどうも受けとれませんでしてね。それはそうと、ついでに子供のことをちょっとお話しいたしましょう。さきほどあの席では、すっかりお話ができなかったものですから、今ここであのときの様子を詳しく申し上げることにしましょう。御覧なさいまし、この糸瓜《へちま》もつい一週間前までは、もう少し厚かったのでございますよ、――自分の鬚のことを申していますので。わたくしの鬚は糸瓜というあだ名を取っているんでございますが、これは主として、小学校の生徒の言うことなんでございますよ。ところで、その、あなたのお兄さんのドミトリイさんが、あのとき、わたくしの鬚を引っぱったんでございますよ。何というわけもなしに、ただお兄さんが暴れだしたところへ、おり悪しくわたくしが、行き合わせたものですから。居酒屋から広場へ引きずり出されたときに、ちょうどそこへ生徒たちが学校から出て来ましてね。その中にイリューシャも混っていたわけなんです。わたくしがそんな目にあってるのを見ると、倅《せがれ》はいきなり飛びかかって来て、『父ちゃん! 父ちゃん!』とわめくんでしてね! そしてわたくしをつかまえて、抱きしめながら、一生懸命に引き放そうとして、敵に向かって『放してください、放してよ、これは僕の父ちゃんなんだから、ねえ、堪忍してやってちょうだいよ!』全くそう言ってどなるじゃありませんか、『堪忍してやってちょうだい』とわめいたのです。それから、小さな手でお兄さんにとびついて、その手に、え、その手に接吻するじゃございませんか、……わたくしは、その
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