よ」と彼は客の手を取って、この男には思いがけないくらいの力で、いきなりアリョーシャを引き起こした、「あなたは婦人に引き合わされていらっしゃるのですから、お立ちにならなければなりません。この人はね、母ちゃんや、あのカラマゾフとは違うんだよ。わしをその……ふむ! その弟さんで、品行の正しい、おとなしい立派なおかたなんだ。失礼でございますが、アリーナさん、失礼でございますが、ねえ、母ちゃんや、まずもって、あなたの御手を接吻させてくださいましな」
と言って、彼は妻の手に、うやうやしく、優しく接吻までするのであった。窓ぎわの娘はこの光景をみると癪《しゃく》にさわって、背を向けた。高慢らしく、物問いたげにしていた妻の顔は、急になみなみならぬ愛想のよさを示した。
「よくいらっしゃいました、チェルノマゾフ(黒んぼ)さん、さあおかけなさいまし」と彼女は言った。
「カラマゾフさんだよ、お母ちゃん。カラマゾフさんだよ……なにしろ、わたくしたちは素性の卑しい者でございますからね」と彼は再びささやいた。
「まあカラマゾフでも何でもいいけれど、わたしはいつもチェルノマゾフです……さあ、おかけなさいな。いったい、家の人はどうしてあなたを立たしたのでしょうね? 家の人は足のない婦人だなんて言いますけれど、足はちゃんとありますよ。ただまるで桶《おけ》のように腫《は》れあがって、体が痩せてしまったのですよ。以前はどうしてどうして、とても太ってましたけど、今はもうまるで針でも飲んだように痩せてしまいましてね」
「わたくしどもは何分にも素姓の卑しいものでして、素姓の卑しい……」二等大尉はまたもやそばから口を出した。
「父さんてば、よう、父さん!」今まで椅子に坐って黙りこんでいた佝僂《せむし》の娘が、いきなり言ったかと思うと、ハンカチで顔を隠した。
「道化者!」窓のそばの娘がだしぬけに言う。
「まあ、あなた、家は今どんなことになっているか御覧なさいまし」と母親は両手を広げて、二人の娘を指さした、「まるで雲が湧き上がってるようなものですよ。雲が通り過ぎてしまうと また、がやがや始まるんですからね。まだ、わたしたちが軍人のお仲間にいました時分は、いろんな立派なお客様がたくさんお見えになったものです。なにも、あなた、何と比べるわけじゃありませんけど、愛してくれる人があったら、こちらもその人を愛してやらなけりゃなりませんよ。そのころ、補祭の家内がまいりましてね。『アレクサンドルさんは気性の立派なおかたですのに、ナスターシャさんといえば、地獄の申し子だ』なんて言うじゃありませんか。だから、わたしはね、こう言ってやりましたの、『ひとは、誰でも崇拝してくれる相手があるのに、おまえなんか一人ぼっちで、鼻もちならないわ』すると向こうの言うには、『おまえなんぞは牢へ放りこんでやらなくちゃならない』――そこでわたしは、『ええ、この意地悪め、誰を教えに来たんだ?』するとまた、向こうでこう言うんですよ、『わたしはきれいな空気を吸ってるけれど、おまえはきたない空気を吸ってるじゃないか』『じゃ、将校さんがたみんなに聞いてみろ、わたしの体の中にきたない空気があるかないか!』と言ってやりました。それからというもの、このことばかり気になってたまらなかったんですよ。すると、つい先だって、今のようにここに坐っていますとね、本当の将官様がこちらへ復活祭をかけていらっしったんですよ、そこでわたしは、『閣下、いったい、高尚な婦人が外の空気を吸っても、よろしいものでございましょうか?』と聞きましたの。と、『うむ、こちらでは通風口でもつけるか、さもなければ戸をあけるかしなければいけません。なにしろ、お宅の空気は新鮮でないのですからね』とおっしゃるんですよ。しかも誰にきいても、皆そう言うじゃありませんか! いったい、あの人たちに、私の空気が、どうだったんでしょう? 死人の臭いよりはましじゃありませんか! だから、わたし言ってやりますの、『わたしはあなたがたの空気を濁したりなんかしませんよ。わたしは靴を注文して、よそへ行ってしまいます』って。まあ、ね、自分の母親をそうとがめないでおくれ! ニコライさん、いったい、わたしがお気に入らなかったんですの? わたしのせめての楽しみは、イリューシカが学校から帰って、わたしを可愛がってくれることですの。昨日も林檎《りんご》を持って帰ってくれましたよ。どうか許しておくれ、母さんを許しておくれ、わたしは一人ぼっちの寂しい身の上です。いったい、なんだって、みんなわたしの空気がそんなにいやになったのでしょう?」
と言って、哀れな狂女は、いきなり声をあげてすすり泣きをし始めた。涙はとめどなく流れるのであった。二等大尉はまっしぐらに妻の方へ駆け寄った。
「母ちゃんよ、母ちゃん、およしよ、およ
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