時のあれの顔が、今でもありありと見えるようでございますよ。忘れられないんでございますよ、けっして、これから先も忘れはいたしません……」
「僕誓ってもいいです、」とアリョーシャは叫んだ、「兄は十分にこのうえもない誠意をもって、あなたに悔悟《かいご》の念を表わすはずです。あの広場で膝をついてまでも……無理にそうさせます。でなかったら、もう僕の兄じゃありません!」
「ははあ、ではまだ御計画中なんですね。あの人から直接に出たことでなくって、あなたの立派な情愛から出たことなんですね。そんならそうとおっしゃればよろしいのに。いや、そういうわけなら、わたくしにもお兄さんのこのうえもなく義侠的《ぎきょうてき》な、いかにも軍人らしい高潔なお心を証明させていただきましょう。お兄さんはあのとき、その高潔なお心を、立派にお示しになったのでございますからね。この鬚を引っぱり回していた手を放しなさると、『君も将校なら、おれも将校だ、もし相当の介添人が見つかったら、決闘を申しこめ。そしたら君のようなやくざ者でも、得心のいくように相手になってやる!』と、こう申されたんでございますよ。いや、全く義侠的精神じゃございませんか! わたくしは、そのとき、イリューシャを連れてすごすごと帰りましたが、家の系図にまで残るほどのそのときの光景は、永久にあの子の心に刻みつけられたのでございますよ。いいえ、どういたしまして、わたくしたちは貴族のまねをするわけじゃございません。御自分でも考えてみてくださいまし。あなたは今わたしのお屋敷で、何を御覧になりました? 三人の貴婦人が坐っておりますが、一人は足|痿《な》えの阿呆《あほう》、もう一人は足痿えの佝僂《せむし》、もう一人は足も達者で、利口すぎるくらいでございますが、女学生でして、もう一度ペテルブルグへ行くと申して、何でもネヴァ川の岸で、ロシア婦人の権利を求めるとか申して承知しません。イリューシャのことは何も申しません。なんといってもやっと九つで、指一本にも当たらないような子供でしてね。もしわたくしが死にましたら、こういう子供はどうなるのやらわかりませんのでね。わたくしはこのこと一つだけあなたにお尋ねしたいんですけれど? もし、わたしがお兄さんに決闘を申しこんで、さっそく殺されでもしたら、そのときはどうなるでしょう? 家内の者はどうなるでしょうか? おまけに、なお始末が悪いのは、お兄さんがわたしを殺してしまわないで、かたわ者にするくらいで許してくださったときでございます。働くわけにはまいりませんが、それでも口だけはやはり残っています。いったい、そのときに、誰がこの口を養ってくれるでしょう? それとも、イリューシャを学校から下げて、毎日乞食しに歩かそうとおっしゃるんでございましょうか? お兄さんに決闘を申しこむということは、わたくしにとって、これだけの意味があるのです。こんなばかばかしいことを言っても、もうしかたはございませんがね」
「兄さんはあなたにおわびしますよ。広場のまん中であなたの足もとにひざまずくでしょう」アリョーシャは眼を輝かせながら、またもや叫んだ。
「またあの人を裁判所へ訴えようかとも思いました」と二等大尉は続けた、「ところが、わが国の法典をひろげて御覧なさいまし、わたくし個人の受けた侮辱に対して、相手の者からたいした賠償もとれないんじゃございませんか? それに、そこへもってきて、アグラフェーナ(グルーシェンカ)様が、わたしを呼びつけて、いきなりどなり散らすじゃありませんか、『大それたことを考えるもんじゃないよ! もしもあの人を訴えでもしたら、わたしがわきから手をまわして、あの人がおまえをなぐったのは、おまえのいんちき[#「いんちき」に傍点]のせいだと、みんなに吹聴《ふいちょう》してやる。そしたら、おまえがあべこべに、裁判所へ引っぱられるんだよ』って。しかし、このいんちきがたれの手から出たことか、そしてたれのいいつけでわたくしが卑怯《ひきょう》なまねをしたのか、神様ばかりはようく御承知でございますよ。つまり、あのかた御自身と、フョードル様のさし金じゃございませんか? それから付けたりにおっしゃるには、『おまけに、わたしが一生おまえを追っ払ったら、わたしのところでは鐚一文《びたいちもん》だってとれないんだよ、うちの商人にもそういっておいたから(あのかたはサムソノフ老人のことを『うちの商人』と申されますので)、あれもおまえを寄せつけないはずだ』。そこで、わたしも考えました。もしも、あの老人がわたくしを寄せつけなかったら、たれからもらえるのか? と。なにせ、わたくしにもうけさしてくれるのは、あのお二人きりでございますからね。あなたのお父さんはある別な事情のために、わたくしを信用してくださらないようになったばかりでなく、わた
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