要がないうえに、黙ってあなたのそばを離れてしまったほうが、僕としてもより多く威厳が備わるわけだし、あなたにもいやな思いをさせないで済むということは、自分がよく承知しています。しかし、僕は遠いところへ行ってしまって、またと再び帰って来ないんですからね、……これが永久のお別れなんです、……僕は破裂をそばで見ているのがいやなんです。しかし、もうこれ以上言うことができません、何もかも言ってしまいました、……さようなら、カテリーナさん、あなたが僕に腹を立てるわけにはいきませんよ。なぜって、僕はあなたより百倍以上も、ひどい罰を受けてるんですからね。もう永久にあなたに会えないという、この一つだけでもずいぶんひどい罰ですからね。さようなら、僕はあなたの握手を必要としません。あなたはあまり意識的に僕をお苦しめなすったから、今あなたを許すことができないのです。あとでまた許しましょうけれど、今は握手には及びません。
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Den Dank, Dame, begehr ich nicht.(御身の感謝を余は求めず、夫人よ!)」
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彼は無理に作り笑いを浮かべながら言い足した。これによって自分もシルレルを暗記するほど読んでいるという意外な事実を証明したのであった。以前ならば、アリョーシャも、けっしてそんなことを信じ得なかったに違いない。イワンは女主人にさえ挨拶をせずに、そのまま部屋を出て行った。アリョーシャは手を打った。
「イワン」と彼は度を失ったように後ろから叫んだ、「帰ってらっしゃいよ、イワン! だめだ、だめだ、もうとても帰って来ない!」再び心の中に悲しい思いを浮かべて、叫ぶのであった、「けれど、これは僕の間違いです、僕が悪いんです、僕が始めたのです。イワンは意地の悪い、とんでもない言い方をしました。あんな間違った、意地の悪い物の言い方をするなんて……兄さんはどうしても、もう一度ここへ来なくちゃならない、帰って来なくちゃならない……」アリョーシャは半ば気が違ったもののように叫び続けた。
カテリーナは不意に次の部屋へ出て行ってしまった。
「あなたは何も悪いことはないんですよ。あなたは天使のように、見事な振舞いをなすっただけです」ホフラーコワ夫人は悲しそうな顔色をしているアリョーシャに向かって、さも嬉しそうに早口にささやいた、「わたし、イワンさんを行かせないように、できるだけの方法を講じますからね……」
夫人の顔に喜びの色が輝いているのを見て、アリョーシャはいっそう悲しくなってきた。ところへ、カテリーナがいきなり引き返して来た。その手には虹色をした、百ルーブル札が二枚あった。
「アレクセイさん、わたしあなたに一つたいへんなお願いがあるんですけど」と彼女はいきなりアリョーシャに向かって話しかけた。その声は静かに落ち着いていて、まぎわに何事もなかったかのような風であった。「一週間――ええ、一週間前のことでしたの、――ドミトリイさんがあの熱しやすい性質にまかせて、非常に間違った、しかも不体裁きわまることをしでかしなすったんですの。それはあまりよくないところ、つまり、居酒屋であったことなんですが、いつかお父さんが何かの事件で、代理人にお頼みなすった例の予備二等大尉に、ドミトリイさんが出会いなすったのです。ところが、あの人はどういうわけか、この二等大尉に腹を立てて、大ぜいのいる前で相手の髯《ひげ》を引っつかんだのだそうです。そして、この見苦しい姿で、二等大尉を往来へ引きずり出して、長いこと往来を引き回したんですって。すると、この二等大尉には小さな男の子がおりましてね、ここの小学校へ通っているのだそうですが、この子はその様子を見ると、うろうろ父親のそばを駆け回りながら、大きな声で泣いたんだそうですの。そしてお父さんの代わりに謝ってみたり、あたりの人に加勢を頼んだりしても、みんな笑って見ていて取り合わないんですって。失礼ですけれど、アレクセイさん、わたしはあの人[#「あの人」に傍点]のこのけがらわしい行ないを思い出すたびに、義憤を感じないではいられません、……こんなことはほんの腹立ちまぎれの……夢中になったときのドミトリイさんでなければ、とても思いきってできないような仕打ちです! わたし、もうこの話をすることができません。気力がないんですの、……どう言っていいかわからないんですの。で、わたしはこの相手のことを調べてみましたところ、非常に貧しい人だということがわかりました。名字はスネギーレフというのだそうです。何かで勤めのほうで失敗があって、免職になったのですが、どんなことがあったのか確かなことはお話しできませんわ。この人はいま病身な子供たちと気ちがいのお内儀《かみ》さんという(たしかそんな話でした)不仕合わせな家族を
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