謔ュやって来おったので――そいつが不意に、何かのはずみで、わしの頬桁《ほおげた》を、それもあれの面前で、なぐりつけやがったのだ、すると、あの牝羊みたいな女が、この頬桁一件のために、このわしをひっぱたきかねないばかりのけんまくで食ってかかったのさ、『あなたは今ぶたれましたね、ぶたれましたね、あんな男に頬ぺたをぶたれるなんて! あなたはわたしをあの男に売り渡そうとしてらっしゃるのでしょう……ほんとに、よくも私の眼の前であなたをぶったものだ! もうもうけっして、二度とわたしのそばへ寄せつけやしない! さあすぐに追っ駆けて行って、あの男に決闘を申しこんでください』……そこでわしは、あれの心を静めるために、お寺へ連れて行って、坊さんがたに御祈祷《ごきとう》をしてもらったよ、しかし、アリョーシャ、神かけてわしはあの『憑かれた女』を侮辱したためしはないよ! いや、一度、たった一度きりある。それはまだ結婚したての、はじめての年だったが、そのころあれは、ひどく祈祷に凝《こ》っていて、聖母のお祭などにはことにやかましくて、その日にはわしまで自分の部屋から書斎へ追っぱらう始末なんだよ、そこでわしはあれの迷信をたたきこわしてやろうと思ったのさ『そら、見ておれよ、これがおまえの聖像だ、そら、こうしてわしがはずすよ、おまえはこれを霊験いやちこなものだなどともったいながってるが、わしがそうら、こうして、おまえの眼の前で唾《つば》をひっかけてやるけれど、なんの罰なんか当たるもんか!』ところが、あれがこちらを見た時の形相といったら、どうも、今にもわしは取り殺されるのじゃないかと思ったよ、しかし、あれは飛び上がって手を打っただけで、急に両手で顔をおおったと思うと、ぶるぶる震えだして、床の上へぶっ倒れると、……そのまま、ぐったりくずおれてしまった……アリョーシャ、アリョーシャ! おまえどうしたんだ!」
老人はびっくりして飛び上がった、アリョーシャは父が母親のことを話しだしたときから、だんだん顔色を変え始めたのである。顔は赤くなり、眼は輝き、唇はぴくぴく震えだした……酔っ払った老人はそれまでなんの気もつかずに、しきりに口角から泡を飛ばしていたが、この時、急にアリョーシャの身にはなはだ奇怪な事態が生じたのである。というのは、たった今父が話した『憑かれた女』の状態と全く同じものが、思いがけなく彼に現われたのである。アリョーシャはテーブルから不意に飛び上がるなり、今の話の母親そのままに手を打つと同時に両手で顔をおおって、まるで足を払われたように、椅子の上へ倒れかかると、ヒステリカルに痙攣《けいれん》させながら、声は立てないが思いがけなくせき上げる涙に泣きくずれてしまったのである。この恐ろしい、母親そっくりの類似が、ことのほか老人を驚かしたのである。
「イワン! イワン! 早く水を持って来てやれ、まるであれのようだ、寸分たがわずあれにそっくりだ、あの時のこれの母親とおんなじだ! おまえの口から水を吹きかけてやれ、わしも彼女《あれ》にそうしてやったんだよ、これは自分の母親のことで、母親のことで……」と彼はイワンに向かって、しどろもどろにつぶやいた。
「けど、僕のお母さんが、つまりアリョーシャのお母さんだと思うんですが、どうお考えです?」突然、イワンは憤《いきどお》ろしい侮辱の念を制しきれないで、思わずこう口走った。老人はぎらぎら光る彼の眼眸《まなざし》にぎっくりした。しかし、その時、ほんの一瞬間ではあったが、実に奇態なことが起こったのである。というのは老人の頭から、アリョーシャの母がとりもなおさずイワンの母であるという考えが、すっかりぬけ去っていたのである。
「なんでおまえの母親がそうなんだ?」彼は、何がなんだか腑《ふ》に落ちないでつぶやいた、「なんでおまえはそんなことを言うのだ? いったいどの母親のことを言うのだい……あれはなんだよ……やっ、こん畜生! そうだ、あれはおまえの母親だとも! ちえっ、畜生! いや、こいつはついぞない、頭がぼうっとしていたんだよ、勘弁してくれ、わしはまた、なんだよ、その、イワン……へ、へ、へ!」そこで彼はふいと口をつぐんだ。酔余の、引きのばしたような、半ば意味のない、薄笑いがにやりとその顔にひろがった。が、突然この瞬間に玄関で激しい喧嘩《けんか》の音が起こって、狂暴なわめき声がしたと思うと、ぱっと扉があいて、広間へドミトリイ・フョードロヴィッチが躍りこんで来たのである。老人はおびえあがって、イワンのほうへ駆け寄った。
「人殺しだ、人殺しだ! 助けてくれ、た、助けて!」とイワン・フョードロヴィッチのフロックコートの裾《すそ》にしがみつきながら、彼はこう叫び続けた。
九 淫蕩《いんとう》な人たち
ドミトリイ・フョードロヴィッチのすぐ後ろ
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