|Cafe'《カツフエ》〕 に Verlaine《ウエルレエヌ》 のあるごとく、
ことににくきは日光が等閑《なほざり》になすりつけたる
思ひもかけぬ、物かげの新しき土《つち》の色調。
またある草は白猫の柔毛《にこげ》の感じ忘れがたく、
いとふくよかに温臭《ぬるくさ》き残香《のこりが》の中に吐息しつ。
石鹸《シヤボン》の泡に似て小さく、簇《むらが》り青むある花は
ひと日|浴《ゆあ》みし肺病の女の肌を忍ぶごとく、
洋妾《らしやめん》めける雁来紅《けいとう》は
吸ひさしの巻煙草めきちらぼひてしみらに薫《く》ゆる
朝顔の萎《しぼ》みてちりし日かげをば見て見ぬごとし。

見よ、かかる日の真昼にして
気遣はしげに瞬《またた》ける瓦斯の火の病める瞳よ。
あるものは葱の畑より忍び来し下男のごとく、
またあるものは轢かれむとして助かりし公証人の女房が
甘蔗のなかに青ざめて佇むごとき匂しつ。
ことに正しきあるものはかかる真昼を
饐《す》え白らみたる鳥屋《とや》の外に交接《つが》へる鶏《とり》をうち目守《まも》る。

噫《ああ》、かかるもろもろの匂のなかにありて
薬草の香《か》はひとしほに傷《いた》ましきかな、
哀《あは》れ、そは三十路女《みそぢをんな》の面《おも》もちのなにとなく淋しきごとく、
活動写真の小屋にありて悲しき銀笛の音《ね》の消ゆるに似たり。

見よ、かかる日の真昼にして
気遣はしげに黄ばみゆく瓦斯の火の病める瞳よ。

あはれ、また
知らぬ間《ま》に懶《ものう》きやからはびこりぬ。
ここにこそ恐怖《おそれ》はひそめ。かくてただ盲人《まうじん》の親は寝そべり、
剃刀《かみそり》持てる白痴児《はくちじ》は匍匐《はらば》ひながら、
こぼれたる牛乳の上を、毛氈を、近づき来る思あり。
またその傍《そば》に、なにとも知れぬ匂して、
詮《せん》すべもなく降《くだ》りゆく、さあれ楽しくおもしろき
やぶれかかりし風船の籠に身を置く心あり。
あるは、また、かげの湿地《しめぢ》に精液のにほひを放つ草もあり。

見よ、かかる日の真昼にして
気遣しげに青ざめし瓦斯の火の病める瞳よ。

悩ましき黄の妄想の光線と、生物の冷《ひや》き愁と、
霊《たましひ》の雑艸園の白日《はくじつ》の声もなきかがやかしさを、
時をおき、揺り轟かし、黒烟《くろけぶり》たたきつけつつ、
汽車飛び過ぎぬ、かくてまたなにごともなし……。
[#地から3字上げ]四十二年十月

  瞰望

わが瞰望は
ありとあらゆる悲愁《かなしみ》の外に立ちて、
東京の午後四時過ぎの日光と色と音とを怖れたり。

七月の白き真昼、
空気の汚穢《けがれ》うち見るからにあさましく、
いと低き瓦の屋根の一円は卑怯に鈍《にぶ》く黄ばみたれ、
あかあかと屋上園に花置くは雑貨の店か、
(新嘉坡の土の香《か》は莫大小《メリヤス》の香《か》とうち咽ぶ。)
また、青ざめし羽目板《はめいた》の安料理屋の※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]の内、
ただ力なく、女は頸《うなじ》かたむけて髪|梳《くしけづ》る。
(私生児の泣く声は野菜とハムにかき消さる。)
洗濯屋《せんたくや》の下女はその時に物干の段をのぼり了り、
男のにほひ忍びつつ、いろいろのシヤツをひろげたり。

九段下より神田へ出づる大路《おほぢ》には
しきりに急《いそ》ぐ電車をば四十女の酔人《よひどれ》の来て止《とど》めたり。
斜《はす》かひに光りしは童貞の帽子の角《つの》か。

かかる間《ま》も収《をさ》まり難き困憊《こんぱい》はとりとめもなくうち歎《なげ》く。
その湿《し》めらへる声の中
覇王樹《サボテン》の蔭に蹲《うづく》みて日向ぼこせる洋館の病児の如く泣くもあり。
煙艸工場の煙突掃除のくろんぼが通行人を罵る如き声もあり。
白昼を按摩の小笛、
午睡のあとの倦怠《けだる》さに雪駄ものうく
白粉《おしろひ》やけの素顔して湯にゆくさまの芸妓あり。
交番に巡査の電話、
広告《ひろめ》の道化《どうけ》うち青みつつ火事場へ急《いそ》ぐごときあり。
また間《ま》の抜《ぬ》けて淫《みだ》らなる支那学生のさへづりは
氷室の看板《かんばん》かけるペンキのはこび眺むるごとく、
印刷の音の中、色赤き草花|凋《しな》え、
ほどちかき外科病院の裏手の路次の門弾《かどびき》は
げにいかがはしき病の臭気こもりたり。

(いま妄想の疲れより、ふと起りたる
薬種屋内の人殺、
下手人は色白き去勢者の母。)

何かは知らず、
人かげ絶えてただ白き裏神保町の眼路遠く、
肺病の皮膚青白き洋館の前を疲れつつ、
「刹那」の如く横ぎりし電車の胴の白色《はくしよく》は一瞬にして隠れたり。
いたづらに玩弄品《おもちや》の如き劇場の壁薄あかく、
ところどころの※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]の色、曇れる、あるはやや
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