り》の陰影《かげ》に、
青白き胞衣会社《えなぐわいしや》ほのかににほひ、
※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]多く、而《しか》もみな閉《とざ》したる真四角《ましかく》の煙艸工場《たばここうば》の
煙突の黒《くろ》みより灰《はひ》ばめる煤《すす》と湯気《ゆげ》なびきちらぼふ。

橋のもと、暗《くら》き沈黙《しじま》に
舟はゆく……
なごやかにうち青む砥石《といし》の面《おも》を
いと重き剃刀《かみそり》の音《おと》もなく辷《すべ》るごとくに、
舟はゆく……ゆけど声なく
ありとしも見えわかぬ棹取《さをとり》の杞憂《おそれ》深げに、
ただ黄《き》なる燈火《ともしび》ぞのぼりゆく……孤児《みなしご》の頼《たよ》りなき眼《め》か。

つつましき尿《ねう》の香《か》の滲《し》み入るほとり、
腐《くさ》れたる酒類《さけるゐ》の澱《おど》み濁《にご》りて
そこここの下水《げすゐ》よりなやみしみたり、
白粉《おしろい》と湯垢《ゆあか》とのほめく闇にも
青き芽《め》の春の草かすかににほふ。

湿潤《しめり》ふかき藍色《あゐいろ》の夜《よ》の暗《くら》さ……
かへりみすれば
いと黒く、はた、遠き橋のいくつの
そのひとつ青うきしろひ、
神経《しんけい》の衰弱《つかれ》にぞ絶間《たえま》なく電車過ぎゆき、
正面《まとも》なる新橋《しんばし》の天鵝絨《びろうど》の空《そら》の深みに
さまざまの電気燈《でんき》の装飾《かざり》、
そを脱《ぬ》けて紫の弧燈《アアクとう》にほやかにひとつ湿《しめ》れる。
あはれ、あはれ、爛壊《らんゑ》のまへの官能《くわんのう》のイルユミネエシヨン。

しかはあれども、
湿潤《しめり》ふかき藍色《あゐいろ》の夜《よ》の暗《くら》さ……
溝渠《ほりわり》の闇《やみ》の中《うち》病院《びやうゐん》の舟は消えゆき、
青白き胞衣会社《えなぐわいしや》にほふあたりに、
整《ととの》はぬ鶯ぞしみらにも鳴きいでにける。
[#地から3字上げ]四十二年三月

  片恋

あかしやの金《きん》と赤とがちるぞえな。
かはたれの秋の光にちるぞえな。
片恋《かたこひ》の薄着《うすぎ》のねるのわがうれひ
「曳舟《ひきふね》」の水のほとりをゆくころを。
やはらかな君が吐息《といき》のちるぞえな。
あかしやの金と赤とがちるぞえな。
[#地から3字上げ]四十二年十月

  露台

やはらかに浴《ゆあ》みする女子のにほひのごとく、
暮れてゆく、ほの白き露台《バルコン》のなつかしきかな。
黄昏《たそがれ》のとりあつめたる薄明《うすあかり》
そのもろもろのせはしなきどよみのなかに、
汝《な》は絶えず来《きた》る夜《よ》のよき香料をふりそそぐ。
また古き日のかなしみをふりそそぐ。

汝《な》がもとに両手《もろて》をあてて眼病の少女はゆめみ、
欝金香《うこんかう》くゆれるかげに忘られし人もささやく、
げに白き椅子の感触《さはり》はふたつなき夢のさかひに、
官能の甘き頸《うなじ》を捲きしむる悲愁《かなしみ》の腕《かひな》に似たり。

いつしかに、暮るとしもなき※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]あかり、
七月の夜《よる》の銀座となりぬれば
静こころなく呼吸《いき》しつつ、柳のかげの
銀緑の瓦斯《ガス》の点《とも》りに汝《なれ》もまた優になまめく、
四輪車の馬の臭気《にほひ》のただよひに黄なる夕月
もの甘き花《はな》※[#「木+危」、第4水準2−14−64]子《くちなし》の薫《くゆり》してふりもそそげば、
病める児のこころもとなきハモニカも物語《レヂエンド》のなかに起りぬ。
[#地から3字上げ]四十二年七月
[#改丁]

[#ここから5字下げ、ページの左右中央に]
S組合の白痴
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]

  雑艸園

悩ましき黄の妄想の光線と、生物の冷《ひや》き愁と、――
霊《たましひ》の雑艸園の白日《はくじつ》はかぎりなく傷《いた》ましきかな。
たとふればマラリヤの病室にふりそそがれし
香水と消毒剤と、……※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]の外なる蜜蜂の巣と、……
そのなかに絶えず恐るる弊私的里《ヒステリイ》の看護婦の眼と、
霖雨後《りんうご》の黄なる光を浴びて蒸す四時過ぎの歎《なげき》に似たり。

見よ、かかる日の真昼にして
気遣《きづか》はしげに点《とも》りたる瓦斯の火の病める瞳よ。

かくてまた蹈み入りがたき雑艸の最《もと》も淫《たは》れしあるものは
肥満《ふと》りたる、頸輪《くびわ》をはづす主婦《めあるじ》の腋臭《わきが》の如く蒸し暑く、
悲しき茎のひと花のぺんぺん草に縋りしは、
薬瓶《くすりびん》もちて休息《やす》める雑種児《あいのこ》の公園の眼をおもはしむ。
また、緩《ゆる》やかに夢見るごときあるものは、
午後二時ごろの 〔
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