ゥなる、
弊私的里性《ヒステリイせい》の薄青き、あるは閉せる、
見るからに温室の如き写真屋に昼の瓦斯つき、
(亡き人おもふ哀愁はそこより来る。)
獣医の家は家畜の毛もていろどられ、
歯科病院の帷《カーテン》は入歯のごとき色したり、
その真中《ただなか》にただひとつ、研《と》ぎすましたる悲愁《かなしみ》か、
冷《ひや》き理髪《りはつ》の二階より、
剃刀《かみそり》の如く閃々と銀の光は瞬《またた》けり。

あらゆるものの疲れたる七月の午後、
わが瞰望の凡ての色と音と光を圧すごとく、
凡ての上にうち湿《しめ》る「東京の青白き墳墓《はか》」
ニコライ堂の内秘《ないひ》より、薄闇《うすぐら》き円頂閣《ドオム》を越えて
大釣鐘は騒がしく霊《たましひ》の内と外とに鳴り響く。
鳴り響く、鳴り響く、……
[#地から3字上げ]四十二年十月

  心とその周囲

   ※[#ローマ数字1、1−13−21] 窓のそと

   1

わが※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]《まど》のそと、
黄《き》なる実《み》のおよんどんのちまめ[#「およんどんのちまめ」に傍点]は小《ちひ》さなる光の簇《むらがり》をつくり、
葉かげの水面《みのも》は銀色《ぎんいろ》の静寂《しづけさ》を織《お》る。
白くして悩める眼鏡橋《めがねばし》のうへを
鉄輪《かなわ》を走らしつつ外科医院《げくわゐゐん》の児は過ぎゆき、
気の狂ひたる助祭《じよさい》は言葉なく歩み来る。

鐘を撞け、鐘を撞け、
恐ろしき銀色《ぎんいろ》の鐘を……

この時、近郊《きんかう》を殺戮《さつりく》したる白人《はくじん》の一揆《いつき》は
更にこの静かにして小《ちひ》さなる心の領内《りやうない》を犯さんとし、
すでにその鎗尖《やりさき》のかがやきはかなたの丘の上に閃《ひら》めけり。

正午過ぎ……一分……二分……三分……
日は光り、そよとの風もなし。

   2

ある日、わが※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]の硝子《がらす》のしたに、
覆《くつがへ》されたる蜜蜂の大きなる巣《す》激《はげ》しく臭《にほ》ひ、
その周囲《めぐり》に数《かず》かぎりなき蜂の群《むれ》音《おと》たてて光りかがやき、
粗末《そまつ》なる木《き》の函《はこ》へすべり入り、匍《は》ひめぐる。
かがやかしき歓喜《くわんき》と悲哀《ひあひ》!
すべてこの銀色《ぎんいろ》の光のなかに
太《ふと》くしてむくつけき黒人《こくじん》の手ぞ
働《はたら》ける……甘き甘きあるものを掻きいださんとするがごとく。

その前に負傷《ふしやう》したる敵兵《てきへい》三人《みたり》、――
あるものは白き布《ぬの》にて右の腕《かひな》を吊《つる》したり――
日に焼けたる絶望《ぜつまう》の顔をよせて
そこはかとなきかかる日の郷愁《ノスタルヂヤア》に悩むがごとく
珍《めづら》かにうち眺めたる……足もとの黄色《きいろ》なる花
湿りたる土の香《か》のさみしさに※[#「日/咎」、第3水準1−85−32]《かげ》りつつうち凋《しを》る。

鐘は鳴る……銀色《ぎんいろ》の教会《けうくわい》の鐘……

硝子※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]《がらすまど》のなかには
薄色《うすいろ》の青き眼《め》がねをかけたる女、
かりそめのなやみにほつれたる髪かきあげて、
薬罎《くすりびん》載せたる円卓《ゑんたく》のはしに肱《ひぢ》つきながら
金字《きんじ》見ゆるダンヌンチオの稗史《はいし》を閉《とざ》し、
静かなる杏仁水《きやうにんすゐ》のにほひにしみじみときき惚《ほ》れてあり。

ああ午後三時の郷愁《ノルタルヂヤア》……

   ※[#ローマ数字2、1−13−22] S組合の白痴

夕まぐれ、石油問屋《せきゆどひや》の|S組合《エスくみあひ》の入口に、
つめたき硝子戸《がらすど》のそと、
うち潤《しめ》る石油色《せきゆいろ》の陰影《いんえい》の中《うち》、薄《うす》ら光《ひか》る銀《ぎん》の引手《ひきて》のそばに
薄白痴《うすばか》のわかきニキタは紫の絹ハンケチを頸《くび》にむすび、
今日《けふ》もまたのんべりだらりと立《たち》ん坊《ぼう》の河岸の
便所に凭《もた》るるごとく、
のろまな
その鈍《にぶ》き容態《なりふり》のいづこにか猾《ずる》き眼《め》を働《はた》らかせにやにやと笑ひつつあり。

日は向《むか》う河岸《がし》の家畜病院《かちくびやうゐん》の頽《すた》れたる露台《バルコン》を染め、
入口の硝子戸の前に薬《くすり》塗《ぬ》らるる色|黄《き》なる狂犬《きやうけん》を染め、
隣《とな》れる健胃固腸丸《けんゐこちやうぐわん》の広告に苦《にが》き光を残しつつ沈みゆく。

S組合の薄白痴《うすばか》は
石油ににじむ赤き髪《け》に雑種児《あひのこ》の矜《ほこり》を思ひ
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