A
けふの夜食《やしよく》も焼《やき》パンにジヤムと牛乳《ミルク》を購《か》はんとぞ思ふ。
かかる間《ま》も白銅のこひしさに
通《とほ》りすがる肥満女《ふとつちよ》の葱《ねぎ》もてる腕《かひな》に倚《よ》りてうち挑《いど》む。
薄暮《くれがた》の河岸《かし》のあかしや、二本《ふたもと》の海岸《かし》のあかしや、
その葉のゆめの金糸雀《かなりや》のごとくに散《ち》るころを、
またしてもくちずさむ、下品《げひん》なる港街《みなとまち》の小唄《こうた》。
青き青き溝渠《ほりわり》の光は暮れてゆく……

わかきニキタはぼんやりと薄笑《うすゑみ》しつつ、……
十月の枯草《かれくさ》の黄《き》なるかがやき、そがかげのあひびきの
浮《うは》つきし声のかすれを思ひいで、
また外光《ぐわいくわう》の紫《むらさき》に河岸《かし》の燕《つばめ》の飛び翔《かけ》りながら隙見《すきみ》する
瞳《ひとみ》青きフランス酒場《さかば》の淫《たは》れ女《め》が湯浴《ゆあみ》のさまを思ひやり、
あるはまた火事ありし日の夕日のあたる草土堤《くさどて》に
だらしなく擁《かか》へ出されて薫《かを》りたる薄黄《うすき》の、赤の乳緑《にふりよく》の、青の、沃土《えうど》の、
催笑剤《わらひぐすり》や泣薬《なきぐすり》、痲痺剤《しびれぐすり》や惚薬《ほれぐすり》、そのいろいろの音楽《おんがく》の罎。
さて組合の禿頭《はげあたま》のトムソンが赤つちやけたる鹿爪《しかつめ》らしき古外套《ふるぐわいたう》ををかしがり、
恐ろしかりし夏の日のこと、どくだみの臭《くさ》き花のなかに
「キ…ン…タ…マ…が…い…た…い」と
白粉《おしろい》厚《あつ》き皺《しは》づらに力《ちから》なく啜《すす》り泣きつつ、
終《つひ》に斃れし旅芸人《たびげいにん》のかつぽれが臨終《りんじゆう》の道化姿《どうけすがた》ぞ目に浮ぶ。

今|瓦斯《ガス》点《つ》きし入口の撻《ドア》押しあけて
石油の臭《にほひ》新らしく人は去る、流行《はやり》の背広《せびろ》の身がるさよ。
いつしかに日は暮れて河岸《かし》のかなたはキネオラマのごとく燈《あかり》点《つ》き、
吊橋《つりばし》の見ゆるあたり黄《き》なる月|嚠喨《りうりやう》と音《ね》も高く出でんとすれど、
あはれなほS組合の薄白痴《うすばか》のらちもなき想《おもひ》はつづく……

   ※[#ローマ数字3、1−13−23] 泣きごゑ

わが寝ねたる心のとなりに泣くものあり――
夜《よ》を一夜《ひとよ》、乳《ち》をさがす赤子のごとく
光れる釣鐘草《つりがねさう》のなかに頬をうづめたる病児《びやうじ》のごとく、
あるものは「京終《きやうはて》」の停車場《ていしやば》のサンドウヰツチの呼びごゑのごと、
黄《き》にかがやける枯草の野を幌《ほろ》なき馬車に乗りて、
密通《みつつう》したる女《をんな》のただ一人《ひとり》夫《をつと》の家《いへ》に帰《かへ》るがごとく、
げにげにあるものは大蒜《にんにく》の畑《はたけ》に狂人《きやうじん》の笑へるごとく、
「三十三間堂」のお柳《りう》にもまして泣くこゑは、
ネル着《つ》けてランプを点《とも》す横顔《よこがほ》のやはらかき涙にまじり
理髪器《バリカン》の銀色《ぎんいろ》ぞやるせなき囚人《しうじん》の頭《かしら》に動《うご》く。
そのなかに肥満《ふと》りたる古寡婦《ふるごけ》の豚ぬすまれし驚駭《おどろき》と、
窓外《まどそと》の日光を見て四十男の神官《しんくわん》が
死のまへに啜泣《すすりなき》せるつやもなく怖《おそろ》しきこゑ。

ああ夜《よ》を一夜《ひとよ》、
わが寝《ね》たる心のとなりに泣くもののうれひよ。

   ※[#ローマ数字4、1−13−24] 銀色の背景

わが悲哀《かなしみ》の背景《バツク》は銀色《ぎんいろ》なり。
そは五月《ごぐわつ》の葱畑《ねぎばたけ》のごとく、
夏の夜の「若竹《わかたけ》」の銀襖《ぎんぶすま》のごとく青白き瓦斯《がす》に光る。

そのまへに、――
弊私的里《ヒステリイ》の甚しきは
私通《しつう》したる※[#「さんずい+自」、第3水準1−86−66]芙藍色《さふらんいろ》の[#「※[#「さんずい+自」、第3水準1−86−66]芙藍色《さふらんいろ》の」は底本では「泊芙藍色《さふらんいろ》の」]女の
声もなき白痴《はくち》の児をば抱きながら入日を見るがごとくに歩《あゆ》み、
かの苦《にが》く青くかなしき愁夜曲《ノクチユルノ》……
ある夜《よ》のわれは恐ろしくして美しき竹本小土佐の
「合邦《がつぽう》」の玉手御前《たまてごぜん》の悲歎《なげき》をば弾語《ひきがたり》する風情《ふぜい》に坐《すわ》り、
暗き暗き欝悶《うつもん》は
鈍銀《にぶぎん》の引《ひ》かれゆく幕の前に、指組《ゆびく》める「仁木《に
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