ヘんしや》がうすれて
外光《ぐわいくわう》が青《あを》みを帯《お》びた。
煙突《えんとつ》から薄《うす》い煙《けぶり》がたなびき
畑々《はたけ/\》の葱《ねぎ》の尖頭《さき》には
銀色《ぎんいろ》の露《つゆ》が光《ひか》つてくる。
そしてなほ、湿《しめ》つた黒《くろ》い土《つち》のなかでは
寥《さび》しい虫《むし》が、
幽《かす》かな昼《ひる》の調子《てうし》で鳴《な》いてゐる。

寂しい寂しい寂しい畑。
[#地から3字上げ]四十三年一月

  八月のあひびき

八月の傾斜面《スロウプ》に、
美くしき金《きん》の光はすすり泣けり。
こほろぎもすすりなけり。
雑草の緑《みどり》もともにすすり泣けり。

わがこころの傾斜面《スロウプ》に、
滑りつつ君のうれひはすすり泣けり。
よろこびもすすり泣けり。
悪縁《あくゑん》のふかき恐怖《おそれ》もすすり泣けり。

八月の傾斜面《スロウプ》に、
美くしき金《きん》の光はすすり泣けり。
[#地から3字上げ]四十三年八月

  秋

日曜の朝、「秋」は銀かな具《ぐ》の細巻の
絹薄き黒の蝙蝠傘《かうもり》さしてゆく、
紺の背広に夏帽子、
黒の蝙蝠傘《かうもり》さしてゆく、

瀟洒にわかき姿かな。「秋」はカフスも新らしく
カラも真白につつましくひとりさみしく歩み来ぬ。
波うちぎはを東京の若紳士めく靴のさき。

午前十時の日の光海のおもてに広重《ひろしげ》の
藍を燻《いぶ》して、虫のごと白金《プラチナ》のごと閃めけり。
かろく冷《つめ》たき微風《そよかぜ》も鹹《しほ》をふくみて薄青し、
「秋」は流行《はやり》の細巻の
黒の蝙蝠傘さしてゆく。

日曜の朝、「秋」は匂ひも新らしく
新聞紙折り、さはやかに衣嚢《かくし》に入れて歩みゆく、
寄せてくづるる波がしら、濡れてつぶやく銀砂の、
靴の爪さき、足のさき、パツチパツチと虫も鳴く。

「秋」は流行《はやり》の細巻の
黒の蝙蝠傘さしてゆく。[#地から3字上げ]四十四年十月

[#改丁]

[#ここから5字下げ、ページの左右中央に]
槍持
[#ここで字下げ終わり]
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  おかる勘平

おかるは泣いてゐる。
長い薄明《うすあかり》のなかでびろうど葵の顫へてゐるやうに、
やはらかなふらんねるの手ざはりのやうに、
きんぽうげ色の草生《くさぶ》から昼の光が消えかかるやうに、
ふわふわと飛んでゆくたんぽぽの穂のやうに。

泣いても泣いても涙は尽きぬ、
勘平さんが死んだ、勘平さんが死んだ、
わかい奇麗な勘平さんが腹切つた……

おかるはうらわかい男のにほひを忍んで泣く、
麹室《かうじむろ》に玉葱の咽《む》せるやうな強い刺戟《しげき》だつたと思ふ。
やはらかな肌《はだ》ざはりが五月《ごぐわつ》ごろの外光《ぐわいくわう》のやうだつた、
紅茶のやうに熱《ほて》つた男の息《いき》、
抱擁《だきし》められた時《とき》、昼間《ひるま》の塩田《えんでん》が青く光り、
白い芹の花の神経が、鋭くなつて真蒼に凋れた、
別れた日には男の白い手に烟硝《えんせう》のしめりが沁み込んでゐた、
駕にのる前まで私はしみじみと新しい野菜を切つてゐた……

その勘平は死んだ。

おかるは温室《おんしつ》のなかの孤児《みなしご》のやうに、
いろんな官能《くわんのう》の記憶にそそのかされて、
楽しい自身の愉楽《ゆらく》に耽つてゐる。

(人形芝居《にんぎやうしばゐ》の硝子越しに、あかい柑子の実が秋の夕日にかがやき、黄色く霞んだ市街《しがい》の底から河蒸気の笛がきこゆる。)
おかるは泣いてゐる。
美くしい身振《みぶり》の、身も世もないといふやうな、
迫《せま》つた三味《しやみ》に連《つ》れられて、
チヨボの佐和利《さはり》に乗つて、
泣いて泣いて溺《おぼ》れ死にでもするやうに
おかるは泣いてゐる。

(色と匂《にほひ》と音楽と。
勘平なんかどうでもいい。)[#地から3字上げ]四十二年十月

  雪の日

淡青《うすあを》い雪は
冷《つ》めたい硝子戸のそとに。……

紫の御召《おめし》をひきかけた
浜勇は
東の桟敷に。

薄い襟あしの白粉《おしろい》も見よきほどに
こころもち斜《なゝめ》に坐つて。
うつむき加減《かげん》にした横顔の
淡青い雪の反射。

静かに曳かれてゆく幕そとの、
立三味線、
仁木の青い目ばりの凄さ。

暮れかかる東京のそらには
ほんのりと瓦斯が点《つ》き
淡青い雪がふる。

半玉は冷《つ》めたい指をそろへて、
引込《ひきこみ》の面《つら》あかりをながめ、
なにかしらさみしさうに。

淡青い雪は
冷《つ》めたい硝子戸のそとに。

幽かな音、幽かな色、幽かなささやき……
[#地から3字上げ]四十三年七月

  種蒔き

パツチパツチと鳴く虫の
昼のさびしさ、つつましさ、……
葱の畑の
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